新潟県主要地方道6号
山北朝日線 旧巻澤橋

第4部

2021年9月25日 探索 2022年4月10日 公開

草を掻き分けながら進んでいくと、こんな景色が目の前に現れた。これはどう見ても行き止まり。ちょっと待て、ここまで来て行き止まりか?。だが、この道は確かに新潟県主要地方道6号(旧新潟県一般県道蒲萄越後寒川停車場線)だったはずだ。そのことは、森の中で辿り着いた旧巻澤橋の親柱がちゃんと証明してくれていた。
となると、この道は旧県道で間違いない。じゃあ、この目の前の壁はいったい・・・。
まさか、もしかして?!。この時ある考えが私の頭に浮かぶが、それはまずは置いといて、目の前の壁を登ってみよう。そうすることで、何か掴める気がしていた。

やっぱり!

さほど高くない土の壁を乗り越えて見えた風景がこれだ。目の前に広がる舗装された道は、現在の主要地方道6号山北朝日線、このアングルから見えているカーブミラーに見覚えがある。ここは現道の巻沢橋に繋がる直前のカーブで、道形は至って自然だったはずだ。すると、旧道が繋がっていた道はいったい・・・?。
ひとまず、この目の前の斜面を降りてみよう。幸いなことにこの斜面は土で、横向きに角度をつけて体重をかければ降りていけそうだ。

順調に斜面を滑り降りて(笑)、現道から見えた景色がこれだ。改めてこうして見ると、現道を普通に通行していたら、まさかここに旧道の入口があるなんてわからない。と言うか、こりゃわからんて・・・。でも、何故にここまで旧道の存在を消したのか。これが大きな疑問となった。
これなら、現道が完成して切り替えるにも大変だったはずだ。ここまでして旧道の痕跡を消した理由がわからない。これは机上調査で調べてみないといけないだろう。

ところで、私はこの斜面を降りるときに身体を斜めにして滑り降りるように(あくまでもスマートに(笑))降りてきたのだが、私が降りている真っ最中の時に1台通りかかられた車がいた。その車は「まさかこんな道端の斜面を滑り降りてくるやつなんかいないだろう」というところに私が滑り降りてきたので、非常に驚かれた様子で減速し、通過されていった。
無理もない。誰もいないと思うのが当たり前の斜面を、長靴とヘルメット姿で首から一眼レフを下げて皮手袋を装着した「非常にアヤシイやつ」が滑り降りてきたら・・・そりゃ驚くわね(^^;

この場を借りて、お詫び申し上げたい。驚かせて申し訳ない。

角度を変えて合流点を眺めてみる。
そうだよなぁ。こんなところから降りてきたらびっくりするよなぁ。
だが、こうして眺めてみても、どうして県道の合流点をここまで隠したのか。木々もスクスクと成長して雑草も生い茂って、もしかすると廃道化工事でも行われたんじゃないかってくらいに消されてしまっている。それに現道へのアプローチの角度も変だ。

もしかすると、旧道に繋がる道が(現道以外に)あるのかもしれない。そう思って辺りをウロウロして探してみると・・・ありました。それらしき道が。

ここは旧道の出口の斜面の反対側。角度的にややズレてはいるが、不自然すぎるほどに不自然で目立たない道が現道の脇から分岐していた。それがこの道だ。道の雰囲気といい規模といい、おそらくはこれが旧道だろう。その入口に立って眺めたのがこの画像だが、前方にフェンスが見える。
接近してフェンスを紹介すると何かと影響がありそうなので、このように遠方からの画像にとどめておくが、この道は現在、とある鉱山跡に関係した道になっており、立ち入り禁止になっているようだ。だがこの鉱山を掘り下げていくと、この辺の山中を縦走しなければならない羽目になるのはわかっているので・・・出来れば避けたいのが本心だったり(笑)。

さて、蒲萄鉱山(あっ言っちゃった)に関係する話は机上調査をしてからということにして、今は現道を辿って戻ることにしよう。途中に現道の巻沢橋もあるし、親柱を確認してみようかと軽く考えていた。ところが、ここで・・・。
まずは確認してみよう。話はそれからだ。

ふむ。これは「県道蒲萄越後寒川(停)線」とある。この名称は主要地方道6号山北朝日線になる前の名称で、この時代に建造されたものと言うことがわかる。これ自体は不思議なことは全くなく、この道が全長は短いものの主要地方道として指定されていると言うことは、どれだけこの道が地域にとって重要だと言うことがわかる、いい例と思う。

続いて見てみると、この橋の名称が刻まれていた。そこには「巻沢橋」と。森の中の橋は旧字体だったが、この橋の漢字は新字体になっており、それだけでも時代を感じさせてくれるじゃないか。いい感じだ。他の親柱も確認してみよう。

今度は、この橋の竣功年月が刻まれていた。確認すると、昭和50年12月竣功とある。昭和50年と言えば、西暦で言うと1975年になる。・・・ん?確か旧巻澤橋の竣功年月は私と同じ年月、昭和46年3月だったはず・・・。

おやおやっ?!

てことは、旧巻澤橋は竣功からたった4年ちょっとしか使用されなかったと言うことか?。一見すると何の変哲もない現道の橋と旧道の橋には、何か隠されているのか?。そう言ってもいい謎のような気がする。

最後の親柱は「まきさわはし」と銘板がはめ込まれていた。しかし、竣功年月の謎を目の前に突き付けられた私には、もう目に入らなくなっていたのは言うまでもない。
こういった予想外の展開に、私はハッキリ言って興奮していた。机上調査に時間がかかるかもしれないが、この謎は出来るだけ解かなければいけないだろう(だが、こういった謎に多くあるのが「そう大した理由ではない」と言うことだ)。

この橋と道に隠された謎は何なのか。何故に架橋から4年少しで廃道となり廃橋にならなくてはいけなかったのか。なんだか自分で勝手にハードルを上げているような気がするが、出来る限り調べてみることにしよう!。

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