新潟市秋葉区
熊沢隧道 後編

2019年3月26日 探索 2019年11月8日 公開

出口の先は

照明が照らす隧道を歩いていくと、出口が見えてきた。熊沢側の坑門で、最後の部分だけ階段になっているようだ。ここまでこの隧道を通ってきた感じでは内部は乾燥しており、水漏れなども全くない。従って路面も乾燥していて非常に歩きやすく、鉄板で行われている巻き立ても傷んでいるところはなかった。なので通行するには全く問題はないのだが、通行する人がほとんどいないようで、私が通っているときもすれ違う人は一人もいなかった。時間帯によっては散歩やウォーキングなどで通行する方がいらっしゃるかもしれない。

出口付近の階段区間に入る。この階段部分は、一段の高さは低いが段数と一段の幅があって、のんびりと登れる階段ではなさそうだ。登っていく足音が隧道内に響く。ここから見える出口の風景は明るく、見る限りではどうやら森のど真ん中に出るわけではなさそうだ。実は、出口も森の中だったらどうしようかと思っていたのだが、少し安心した。

熊沢側に出て、振り返って撮影した。こちら側の坑門も、煮坪側の坑門と同じような意匠で造られている。右側に見える白い杭には「第一秋葉風致地区」とあるが、この辺はその名の通り、自然がそのまま残されているようだ。そのおかげなのかどうかはわからないがプーさん(クマ)も健在のようで、出没の警告表示が左側の木につけられている。路面には自動車のタイヤの跡があるが、ここを付近の林道の転回場所として使っているようで、切り返している跡がある。もう少し近づいて、坑口を観察してみよう。

怪しい穴の正体

こうしてみると坑門の周りが開けているせいか、山の中腹にいきなり坑門があった煮坪側よりも多少は明るい雰囲気がするのは気のせいだろうか。そう思いながら「他に何かないかな」とキョロキョロと辺りを見回していると、坑門の直上の山の中腹に実に怪しいものを見つけてしまった。私が直感的に思ったそのことに確証は全くないのだが、おそらくそうだろう。そんな気がする。私が見つけてしまった怪しいものとは何か。それは…

これは旧隧道か?

うーん、実に不自然な穴!。この穴は素掘り時代の旧隧道の跡じゃないのか?ということが考えられる。そうなると、今の隧道は煮坪側の坑口は同じでも、角度を変えて掘り直されたものということになるのだが…。素掘り時代の旧隧道の跡ということを前提に、現在の坑門の左右の状況を見ながら想像してみる。
旧隧道は今より高い位置にある坑口から、かなりの急角度で煮坪側に下っていたことになる。また、その坑口に到達するにも、結構な急角度で斜面を登らなくてはならない。この隧道がどういった経緯で造られたのか、それを調べると、この穴が旧隧道かどうかがある程度掴めそうだ。
さて、どうやってこの隧道の歴史を調べようかと考えながら、辺りを見回すと…

いいぞ!行政!

他に調べる必要がないほど、細かく書いてあるじゃないか!。この案内看板の内容からすると、この隧道は1900年(明治33年)1月に竣功したとある。そうすると、この隧道は竣功から119年の古豪の隧道だ!。油田の枯渇によって、この隧道を通る人も少なくなり荒れ果てたようだが、昭和50年に新津市(現在の新潟市秋葉区)が遊歩道整備の一環として整備した(←掘り直した?)とあるので、そうなると現隧道の上にある穴が、やはり旧隧道の名残ということが考えられる。

一通り探索を終えて煮坪側に戻る前に、最後に1枚撮影。この角度から撮影したのは特に意図はなかったが、こうして後で見ると隧道の坑口や左右擁壁の様子がよくわかる。坑口の上にある穴の周りの土の被り方などを見てみると、これはやはり旧坑口で間違いないだろう。
現在の隧道では先ほど通ってきた通り熊沢側の一部が階段になっていて、正直に言うと「これは掘り直す時にずれてしまい、階段とすることで辻褄を合わせたかな?」と思っていたのだが、本当にそうかもしれないという気がしてきた。

幾何学的な印象と、照明に照らされた坑道の様子が特徴的なこの隧道。この画像は、熊沢側の坑口から覗き込んだところである。結局、私が煮坪側からこの隧道に入ってから今まで誰もこの隧道を通ってない。竣功から120年弱の古豪の隧道は、原油の運搬路として(有料道路だったようだが)活躍したと熊沢トンネルの看板にあるので、それは大変な賑わいだったことだろう。
それだけに、ほとんど人が通ることのない今の現状は少し寂しい気がするが、きちんと再整備されて、今もこうして隧道としての役目をしっかりと果たすことが出来ていると言うことは、幸せなことなのかもしれない。
そんなことを思いながら、この古豪の隧道を後にした。

新潟市秋葉区 熊沢隧道

完結。