新潟県出雲崎町道
尼瀬稲川線 稲川隧道
第4部(再調査・完結編)
2018年12月24日 探索・2019年1月8日 公開
前回で完結したかに思われた稲川隧道。
しかし、この隧道の調査の難しさ、謎の奥深さはまだ終わっていなかった。完結した第3部を読んだ友人から、元旦を挟んで以下のような情報が寄せられたのである。
・今日、親がお寺に行ったら稲川の人が来てて、私がトンネルの話をしてたから聞いてみたら、古いトンネルはまだあると言ってたというんだけど…
・「ナナマガリ」がどうのこうの…そんな地名ないから、私もわからない。
え~と…さぁややこしくなってきたぞ(汗)。
ふーむ、古いトンネルはまだある…。現地は既に雪に覆われていて、調査は至難の業だろう。その中を山に入っていくと遭難の危険さえある。そこで、まずはこの稲川隧道がある町道尼瀬稲川線を管轄する出雲崎町役場に、以下の内容をメールで問い合わせてみた。
- 稲川トンネルは稲川隧道を掘り直したものか?
- 稲川隧道の前に、違う場所に隧道があったという記録等は、町史の他に残っているか?
もちろん、これを単純に聞いたわけではなくて、このWEBのことや地形図、顛末などを詳細に書き加えてメールをお送りしたのだが、翌日に仕事始め(1月4日)にも関わらず、丁寧な返信を頂いた。それによると郷土史家の方にご確認頂き、その方の話では「稲川トンネルと稲川隧道は別だと思うが、今のトンネルが拡張したものなのかは定かでないため、地元の詳しい方に確認してみる」とのお話を頂いた。また、違う場所に隧道があったという史実は残っていないとのことであった。…う~ん…こうなると旧版地形図の出番だろうか。
そこで私は1931年(昭和6年)、友人があの画像を撮影する7年前の1968年(昭和43年)の2枚の地図を比較対象してみた。
まずは1931年(昭和6年)。トンネルが開通する前の旧道が見えるが、そこにクネクネと曲がるつづら折りの峠道が見える。これがナナマガリだろう。では次に、1968年(昭和43年)の地図を見てみよう。
1931年(昭和6年)発行の地形図は50000分の1、1968年(昭和43年)発行の地形図は25000分の1なので多少の誤差はあるかもしれないが、地形的にほぼ同じ場所を通っていると見た。また1931年(昭和6年)発行の地形図の稲川隧道付近の道の記号は、里道(聯路・れんろ)となっており、荷車を通さざる部ともなっている。おそらくこの道は現在の稲川トンネルの直上にある荒城址の中にある切通しの部分と思われ、この時代には隧道はなかっただろうと考えた。切通しは以下の画像の赤線で囲った部分と思われる。
また、当時から聯路(れんろ)として記載されていたということは、この道が海沿いと山沿いを結ぶ重要な道だったと考えていいだろう。ちなみにこの時代の現国道352号は広めの実線2本の「主要なる府縣道」として描かれており、この稲川隧道がある町道尼瀬稲川線と共に重要な道だった。つまり、この2本の道に関しては時代に応じていくつか変遷はあるものの、1931年から現在の2019年までその道筋はほとんど変わっていないのである。
さて、道筋は変わっていないとして問題は隧道。この昭和6年の地図ではもちろん隧道はなくて、峠越えの道になっている。ここで友人の情報「ナナマガリ」を思い出していただきたい。「ナナマガリ」とは普通は漢数字の「七」の字に道が作られているか、くねくねと曲がりくねった、現在で言うところのカーブが多い道、つまりは「つづら折り」と言う意味でも使われる場合がある。1931年(昭和6年)の地図にある峠越えの道(近くに荒城址があることから、仮に「荒峠」としよう)の中山集落側にある、つづら折りの道。これがおそらく「ナナマガリ」ではないかと考えた。
ここで一旦調査作業は中断していたが、本日再度出雲崎町役場からのメールが届いた。その内容は、さらに謎を呼ぶものだった。郷土史家の方が地元稲川の詳しい方を訪ねて伺った内容と言うことなのだが、要約すると以下の内容だった。
「稲川隧道は3回掘って、2回は通過しておらず(これは貫通のことだと思われる)穴だけのものがあって、3段階目に掘ったものが通過(これも貫通の意味と思われる)したが、落盤したので昭和40年以降に今のトンネルをつくったのではないか。文献等で記載されているものはないようだ」
そうすると、ますます矛盾点が多くなる…。
落盤したと言うことは、すなわち圧壊したということ。そこで昭和40年代の今のトンネルを作ったのなら、現在のトンネルの竣功年度は1965年(昭和40年)から1974年(昭和49年)になるはずだが…
1994年(平成6年)2月である。
また、下の画像の稲川隧道が昭和40年代に掘られたものであるなら、扁額の文字の並びがおかしい。
昭和40年代なら文字の並びは左頭で「稲川隧道」となるはずであり、扁額の文字もそれに倣うはずだが、扁額の文字は右頭となっている。この並び方で扁額が書かれたのは昭和20年代前半までで、昭和40年代には左からの現在の書き方になっていた。そうすると友人から提供されたこの画像の「稲川隧道」は昭和20年代前半までに竣功しているはずで、この年代は出雲崎町史の年表とも符合する。
文献や地形図、現地の方の聞き込み、また役場の方の御協力を得て再度調査したところでは、「ナナマガリ」はここで言う荒峠(仮称)のことであり、この峠道の利便性を高めるために隧道を掘った。3回掘ったかどうかはわからないが、位置的にも上の画像が現在の稲川トンネルの前身、稲川隧道の姿と考えられる。
現地で聞き込みをした際に伺った「稲川トンネルと稲川隧道の位置は変わらない。ただし高さは違っている」と言うことだろう。ただ「古いトンネルは、まだある」という情報も、あながち無視はできないので、この点については継続調査としたい。場所や経緯など詳しくご存知の方がいらっしゃれば、この下の「お問い合わせ」からメールを頂ければと思う。
思いがけず、市町村道に存在する隧道の調査が困難なことを経験することになったこの隧道は、私の中で非常に思い出深い隧道となった。また、この情報を提供してくれた友人からは「思いがけず、幼い頃の思い出に触れることが出来て、ほっこりした」と嬉しい言葉を頂いた。
人ひとりの記憶の中に、こんなにも思い出として残っている隧道も、そうないと思う。
画像の中の稲川隧道は天井からいつも水が滴り落ちてきていて、大人が手を伸ばすと天井に手が届くほどの狭い隧道で通行するにもなかなかに怖い隧道だったようだが、姿を変えて今でも人や車を通し続けているとすれば、それは本望と言えるかもしれない。
新潟県出雲崎町道 尼瀬稲川線
稲川隧道
完結。
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