新潟県出雲崎町道 尼瀬稲川線
稲川隧道 後編

 

2018年12月24日 探索・2018年12月27日 公開




「ああ、知ってるよ。これ、そこのトンネルだろう?」
この一言で、すべて解決出来たような気がしたが、更に画像を見せながら詳しいお話を伺ってみると、以下のようなお話だった。

(稲川隧道の画像を見ながら)
このトンネルは、今のトンネルの前のトンネル。長いこと見たことがなかったから、懐かしい。
すごく狭くて、手を上に延ばせば天井に届くような、小さいトンネルだった。
水漏れは凄かった。いつも滴り落ちていて、通るのに苦労していた。

 

そして、これが肝心な事なのだが、この写真のトンネルの場所はもしかして…と私が聞くと、男性は笑顔でこう答えてくれた。
「そう、今の場所と変わってないよ」やっぱり!さらにお話を伺うと…
「でも、高さは変わってるよ。トンネルだけを掘り直した訳じゃなくて、前後の道の幅を広くした時に、トンネルも一緒に掘り直したんだ。天井の位置は変えずに地面だけを掘り下げて、トンネルの高さを高くしたみたいだから、道は昔より一段低いところを通ってるんだけどね。でも、懐かしいなぁ…」
お二人は懐かしそうに、しばらく稲川隧道の画像を眺めていた。

これで稲川隧道があの画像の後、どんな運命を辿ったのかが明らかになった。
友人の画像に写っていた稲川隧道に通じる道は、砂利道で狭く非常に通りにくい道だった。その道が改良される際に、隧道付近の道は一段低く掘り下げられ、これで高さを稼ぐ形で稲川隧道は一回り大きく掘りなおされ、現在に至っていた。
だから、今の稲川トンネルの中山側の道形が、稲川隧道の画像の道形と酷似していたのである。私の中で「もしかすると?」と言う膨らんでいた思いは、まさしくこれだった。それは「稲川トンネルは稲川隧道を掘りなおしたトンネル」。これでスッキリした。

では、稲川隧道はいつ竣功したのか?。残念ながら、これについては竣功の記録がなく正確な日付は不明だが、「出雲崎町史 資料編」を調べてみると、1939年(昭和14年)6月の欄に「町村道工事六郎女線・稲川線トンネル工事進む」との記述がある。また「出雲崎町史 通史編下巻」の年表では、1943年(昭和18年)4月に「稲川トンネル工事進む」とある。1943年と言えば太平洋戦争中であり、工事が中断されることも多かった(事実、同じ出雲崎町内にある「中永隧道」では、この期間に長い期間工事が中断しており、竣功したのは戦後である)。この後、稲川という文字が年表に登場してくるのは1959年(昭和34年)2月で「町道尼瀬・稲川線道路改修期成会結成、150万円で着工」とあり、この工事が竣功したのは1960年(昭和35年)3月30日で、延長3065m、175万円との記述がある。もしかすると、この時に稲川隧道も改修を受けたのかも知れない。
以上のことから、稲川隧道の竣功は1943年(昭和18年)ころと言うことが明らかになった(おそらくだが、昭和20年ころではないかと考えている)。

それでは、この出雲崎町道尼瀬稲川線の歴史を、少し追跡してみよう。

新潟県三島郡出雲崎町は、長岡市の海沿いに位置する町である。
この町の歴史は非常に古く、中山道の追分宿から分岐する北國街道の終着点であり、江戸と越後を結ぶ街道として非常に重要な役割を担っていた。江戸と越後を結ぶ街道にはこの他に、高崎宿から分岐して三国峠を通過し、現在の長岡市寺泊まで到達する三国街道、奥州の中白川宿から分岐して、会津・新潟回りで出雲崎を結ぶ会津街道があるが、北國街道、三国街道、会津街道の三つの街道は、佐渡金山から産出した金を江戸に輸送する際の重要な街道だった。
その中でも北國街道は途中の宿場町の保安や道路形などから、江戸へ向かう三つの街道の中でも主要な役割を占め、佐渡の金のほとんどの輸送は、この北國街道を使って行われたとされている。そして、佐渡から船で搬出された金が陸揚げされ、江戸へ向けての陸送の出発地だったのが、この北國街道の起点の町、出雲崎だった。

このように、歴史的に見ても出雲崎町は海運の主要地として非常に重要な町であるのだが、ここでもう一度地図を見て頂きたい。

国土地理院の電子地形図(タイル)を掲載

上の地図を見ていただくとお分かり頂けるように、この出雲崎町には海側の町と山側の町とある。
現在の町の中心は山側に移っているようだが、以前は海側の方が栄えていた。前編で友人のご家族が語っていた言葉を、皆さんは覚えているだろうか。

「昔は海沿いの方が栄えてて、あのトンネルを通って山の方の人は買い物に来ていた」
「海沿いで花市があってそれに来たり、時計屋さんとかに来てたのは覚えている」

 

そう、この稲川隧道を含む出雲崎町道尼瀬稲川線は、現在の国道352号(右上に見えている、赤い線の道)と共に、出雲崎町の山側と海側を結ぶ、非常に重要な道であったことが地図を見て伺える。
今でも出雲崎町の山側と海側を結ぶ道は国道352号と、この町道尼瀬稲川線くらいしかないのである(厳密にはもう一本、一般県道336号出雲崎石地線があるが、これは石地側の終着点が柏崎市になるので除外した)。

また、出雲崎町史の上巻「中世」にある「荒城跡」を見てみると、かなり多く「稲川隧道」と言う言葉が出てくる。城址探索ではないので割愛するが、この時代から「稲川隧道」と言うキーワードが出てくるところを見ると、この稲川隧道は最初は素掘りの隧道で、それが近代になって坑口付近だけ改修され、その後現代の技術で1994年に掘り直されて現在に至る、と言う仮説は成り立たないだろうか。
そうなると稲川隧道は明治・大正時代どころではなく、それ以前から存在した非常に貴重な隧道と言うことになるのだが…しかし、人一人の記憶の中に、これほど鮮明に記憶を残すとは隧道冥利に尽きるのでは?と思ってしまうのは、隧道好きのおごりだろうか?

この隧道が…

…今はこうなっている。

 

時代を超えて形を変えながら同じ場所に存在し続け、記憶の奥深くに今もその姿を残し続ける隧道。それは…

新潟県三島郡出雲崎町道 尼瀬稲川線
稲川隧道

完結。

 

…と思ったら、まだ完結してなかった!…かも知れない!

 

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