一般国道49号 旧道
音無川右岸道

2019年3月10日 探索・2019年3月26日公開

突然だが、皆さんは「三島通庸(みしまみちつね)」と言う人物をご存じだろうか。

この人物、江戸時代に生まれ幕末の混乱を生き抜いて明治維新を迎え、1874年(明治7年)に酒田県令(現在の山形県酒田市などの旧庄内藩を所管していた、廃藩置県直後の県。県令とは現在の県知事の職にあたる)。その後1876年(明治9年)から1882年(明治15年)まで初代山形県令。1882年(明治15年)1月から福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。1883年(明治16年)10月より栃木県令となった、明治維新の士である。

この三島通庸が山形県令に着任したばかりの1876年(明治9年)に、県内道路計画と言う計画の告示を出して山形県内の道路工事を進めることにした。その計画や工事の進め方に強引な部分もあり、このころから三島通庸が「土木県令」とあだ名されるようになった。三島通庸が進めた道路工事の成果は、1880年(明治13年)には米沢と福島の間に万世大路こと栗子街道、1882年(明治15年)には山形と仙台の間に関山街道を完成させたが、この二つの道は馬車が通行可能な車道で規格され、この時に造られた栗子山隧道、関山隧道等の隧道を含めたこれらの道は、現在の国道13号(栗子街道)や国道48号(関山街道)となり、多少の経路変更などはあるものの、今でも山形県の大動脈として機能している。

この後、三島通庸は1882年(明治15年)に、今の福島県中通り地方(福島県中部)と会津地方(福島県西部)を所管していた、旧福島県に県令として着任することになる。ここでも越後街道(現在の国道49号)や白川街道、山形街道(ともに現在の国道121号)の3つの会津三方道路と呼ばれる街道の建設を推進したが、今回紹介するこの音無川右岸道は、この時に越後街道として切り開いたであろう、現在の国道49号の初期の道である。

私はこの道を地図上で見つけて訪問したのだが、当時は2月で雪深い頃。実はそんなにネタにするような道ではないのかなと思っていたところ、その道の始まりの地点に素晴らしいものを見つけて、これはもしかして?と興味が湧いてきた。だが、その時は道全体がまだまだ深い雪に覆われていたため、仕方なくその場は再訪を誓って撤退したのだが、それを再訪したのがこのレポートである。そこには今の道にはない旧道ならではの雰囲気と、そこを通った人々や馬車、自動車の姿が見えるような道だった。

ではここで現在の地図を見てみよう。おなじみ、国土地理院の電子地形図である。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

上記の赤い矢印の区間が今回探索した区間だ。この道は現在でも多少の車の通行があり、廃道ではない。なので、廃道を求めている身としては少々物足りなく感じるかもしれない。しかし旧道であるが故に、今の道路にはない風景と歴史を感じることが出来る道だと思う。

それでは、これからご案内しよう。
「土木県令」三島通庸が拓いた、越後街道のその道へ!

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