一般国道113号
横根トンネル旧道
第1部
2019年5月3日・2020年3月28日 探索
2020年6月15日 公開
黄色い橋
2020年3月28日、時刻は15時少し前。私は山形県西置賜郡小国町にいた。
画像に見えている橋は向大沢橋、その奥に見えるトンネルは横根トンネルで、現道は蛇行する荒川を避けるように正面に見える山をぶち抜いて赤芝橋へ向かっているが、ここから見ると向大沢橋の手前から左に降りる道が見える。これがこの区間の旧道だ。早速降りていくことにしよう。
近づいていくと、分岐点はこのような感じになっている。錆びついたガードレールが非常にいい感じだが、誰がどう見ても左に降りる道は「旧道だな」とわかる線形になっているのが非常にいい。
それに新道と旧道の路面の高さを見ると、かなり差がある。これは新道が羽越水害の復旧工事の際に架橋されたからで、これから訪れる旧道も羽越水害の際は水没してしまったと思われる(羽越水害は1967年(昭和42年)8月26日から8月29日、向大沢橋の竣功は1969年(昭和44年))。
雰囲気を盛り上げてくれる錆びたガードレールに従って下っていくと、すぐに黄色い鉄道橋の下を潜る。これは米坂線の第四荒川橋梁で、鉄道史に残る事故が発生した橋梁だ。これについては後ほど触れるが、旧道はかなりの急勾配で下っていく。現道がどれだけ嵩上げ(かさあげ)されているか、容易に想像がつくというものだ。それにしても今日は暑い。3月の終わりごろだと小国町ではまだまだ肌寒い時期なのだが、今日はやや汗ばんでしまっている。水分を持ってきてたかなぁと、やや不安になった。
制限高さは3.6mのゲートがある。八ツ口旧道の入口にあったゲートは3.8mで再塗装された黄色が眩しいくらいにきちんと整備されていたが、こちらは錆びが浮かんでいて、あまり整備はされていないようだ。でも、ここを3.6m以上の車高を持つ車なんてそうそう通らないだろうから、あまり手をかける必要もないのかも。
コンクリート製の橋台だが、この橋台は後年に作り直されたものと思われる。開通当初からここに存在するのは橋台の脇にある、玉石積みの擁壁だろう。きっちりと積まれていて、時間を重ねるごとに自然の力を使って強固になっていくような、そんな感じがする。
ところで、今回から画像をマウスオーバー(画面上でマウスカーソル(マウスポインタ)を対象物の上に重ねること)をすると、画像が切り替わる仕組みを入れてみた。上の青枠で表示されている画像がそうで、チェンジ後の画像は反対側の擁壁を撮影したものだ。玉石がしっかりと組まれていて、実に美しい。
道路とは少し離れるが、この橋梁が米坂線第四荒川橋梁だ。実に見事な鉄道橋梁だが、実はこの橋梁は三代目。初代は事故で破損、二代目は羽越水害で流失してしまい、今ここに架かっている橋梁は、以前は東海道本線大井川橋梁として使用されていたトラス橋を改造転用したものだったりする。
またよ~く見ると手前の橋脚と奥の橋脚の形式が違う。これはこの橋梁の先にある隧道に直結する部分の橋桁が、橋脚もろとも羽越水害の際の濁流で破壊・流失してしまったために、奥の2本が復旧工事の際に新しく作られたもの。
チェンジ後の画像は、この橋梁のうちトラス橋部分を拡大してみたが、橋脚の違いもよくわかると思う。左側には石碑が見える。確認してみよう。
黄色い橋の悲劇
この石碑は殉難碑だった。
石碑の裏に回って確認すると、最初の方で少し触れた米坂線の事故の慰霊碑で、発生した経緯と、事故によって亡くなられた鉄道職員11名、旅客5名の方々の氏名が刻まれており、私もここを通行する身として深々と頭を下げ、手を合わせてご冥福をお祈りした。
ここで道路とは少し離れるが、せっかくなのでこの米坂線の事故について少し記しておきたい。
1940年(昭和15年)3月5日、米沢発坂町行、下り103列車は午前8時45分に小国駅を出発した。
この103列車は貨物車(おそらくは有蓋車)3両と客車2両(これに関しては諸説あり、貨車2両・客車3両や貨車2両・客車4両と言う記録もある)が連結された混合列車で、次の停車駅の玉川口駅(この駅は1995年に廃止)を目指して走っていた。だが、この103列車は玉川口駅に到着しなかった。いや、到着出来なかった。
(筆者注・・・玉川口駅は現在は廃止されてしまったが、1936年(昭和11年)の越後金丸駅と小国駅間の開業(米坂線はこれで全通)時に途中駅として造られた。当時は一面二線の交換設備がある駅で、小国駅との間で列車閉塞も行っていたため駅員も多く、飯豊山への登山口最寄り駅として賑わったらしいが、乗降客の減少により1995年(平成7年)12月1日に廃止となった。)
なぜ、103列車が玉川口駅に到着しなかったのか。
小国駅と玉川口駅の間には、荒川を渡る第四荒川橋梁がある。この橋梁は小国駅から来ると横根トンネルに入り、それを出た直後に橋梁があるという構造をしているが、103列車がこの横根トンネルと第四荒川橋梁を通過するその時に、横根トンネル坑口上部で雪崩が発生、橋と橋脚を破壊してしまった。
そこへ103列車が第四荒川橋梁に接近、橋がないので列車は坑口から下の荒川に落下して先頭の機関車が水没、続く貨車三両と次の客車一両が宙づりとなり、辛うじて最後尾の客車だけが線路上に残っていた。その直後、客車に備え付けてあったストーブから出火、今度は列車火災となってしまう。
この事故はいろんな記録で死傷者の数字にばらつきがあるが、この慰霊碑に刻まれている方々の人数が正解だろう。
死者16名(鉄道職員11名、旅客5名)、負傷者30名(鉄道職員6名、旅客24名)の、日本の鉄道史に残る大事故となってしまった。その後、この第四荒川橋梁は急ピッチで復旧工事を行い、3月23日に復旧(鉄道100年略史、鉄道図書刊行会、1972、P263 より)、1940年(昭和15年)9月に新潟鉄道局(その後、新潟鉄道管理局、現JR東日本新潟支社)の手で現地に慰霊碑が建立される。
この慰霊碑は今もJRの方々の手できちんと整備されており、花も手向けられているようだ。なお、この時に架け替えられた二代目の橋梁は羽越水害の際に流失、三代目は東海道本線大井川橋梁として使用されていたトラス橋を改造転用して、現在に至っている。
米坂線の羽越水害に関する被害は、こちらの小国町のWEBにも詳しいので、辿って頂きたい。
三島の旧道へ
では、話を元に戻そう。ここまでやってきた私の車は先ほど慰霊碑があった広場に停めて、ここをベースとした。慰霊碑の広場から旧道に戻って眺めると「旧道です」と言う感じで一直線に進んでいる。
途中、先の方にバリケードが見えるが、これは車の進入を防ぐためのもので通行を防ぐ目的のものではない。チェンジ後の画像は旧道の右側に立っている案内板の画像で、なかなか詳しく書いてあり、情報として非常に助かる。これを見ると、途中の道路脇にたくさん沢があるようだが現道時代もあったんだろうか。土砂崩れなども頻発していたのかもしれない。
バリケードを越えて(と言うか、脇が開いているので「避けて」と言った方がいいかな?)先へ進んだ画像だ。羽越水害の際にこの道が現道の切り替えになっているみたいだが、それまでホントにここをトラックなどが通っていたんだろうか?と心配になる位の道の細さだ。水害が無くても、いずれは局所改良で切り替えになったことだろう。
脇を流れる荒川に沿って小国方向に進む旧道。今は雪解けの季節なので、このように路面の至る所にこうした水たまりがある。昨年(2019年)から今年(2020年)にかけての冬は雪が少なく、おかげでこの前に探索した八ツ口旧道も探索出来たわけだが、それでもここは雪国。少ないとは言っても相応には降っているので注意が必要だ。
ちなみに今回の探索には何があるかわからないので、長靴を履いている。これさえあればぬかるんでいようが水たまりだろうが平気で歩いて行けるし、何より行く手を遮ろうと現れる水たまりやぬかるみに対して、敵からみを守る防護服のごとく優越感を持って進んでいける気持ちよさったら、一種の快感だ(←アホ(笑))
道路脇に側溝があるので道幅が狭い。今のところ難なく平気で歩けるが、沢が多いところを見ると沢の水が流れているところもきっとあるはずと信じて(笑)、長靴で歩いているときの特有の「ボコっボコっ」と言う足音を響かせながら、歩いていく。と思ったら、先の方に沢が流れているのが見えるじゃないか!。ここから見ると、さほどでもなさそうだが…と思いながら、左を見ると…
今は15時半頃で、もうだいぶ日が陰ってきているが、それでも急峻な地形や荒川の豊かな流れは鮮明に映っている。今は重機があるので、道路を作るにも昔よりは手間はかからないと思うが、この区間が開通したのは1885年(明治18年)秋。相当の難工事だったことは想像に難しくない。
その時代の遺構はこの旧道には残っていないかもしれないが、注意深く観察していこう。
それにしても、背中が重い。今回の探索のメインカメラはおなじみD90だが、先日導入してカメラのクセを掴むために連れてきたD300や、オールドレンズを装着したD3300も連れてきているので背中のリュックは8キロ近くの重量になっているし、ウエストバッグなどの重量も合わせると、身体に架かる重量は優に10キロを越えている。…ま、今回は崩れているところもなさそうだし、最近出てきたお腹のために、多少身体に負荷をかけるのもいいか、などと自分に納得させて、先へ進んでいくことにしよう(笑)