新潟県主要地方道78号
大潟高柳線 尾神隧道

第7部(完結編)

2021年6月13日 探索 2021年10月24日 公開

大潟高柳線と尾神隧道

現在の尾神隧道 川谷側坑口 2021年6月13日撮影

さて、机上調査編だ。今回の主人公である尾神隧道は、いったいいつ開通したのか。
まずはここから調べてみよう。と言うことで登場願ったのは「日本全国トンネルリスト」。尾神隧道は記載されているだろうか。調べてみたところ…

おっ、あったあった。赤の下線が引いてある箇所が尾神隧道で、黄色の枠の部分は竣功年号区分と竣功年を指している。竣功年号区分が3と言うことは昭和なので、尾神隧道は1928年(昭和3年)竣功と言うことになる。なかなか古豪の隧道と言えそうだ。
竣功年はわかった。だが、これで終わっては面白くないし、この隧道のバックボーンが知りたい、
そう考えた私は新潟県立図書館で、この隧道が以前に所属していた行政区域の郷土史である「吉川町史」(全3巻)をくまなく読んでみた。以下、尾神隧道の生い立ちや、この県道の歴史についても紐解いていくことにしよう。これより以下は吉川町史を参考に記述したものである。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

まずはおなじみ国土地理院の電子地形図を見てみよう。尾神隧道付近の集落の位置関係は、この通りになる。わかりやすいように注釈を入れてみた。
位置的には地図に記載した通りで、左側が尾神集落方向になり海側へ向かう道、川谷集落から右方向が山側に向かう道と言うことになる。吉川町全体としてみると、この新潟県主要地方道78号大潟高柳線(以下、大潟高柳線と記す)は吉川町内を東西に貫く道で、古くは海側にある柿崎村(旧柿崎町、現上越市柿崎区)の上下浜や三ツ屋浜の行商人が、海産物を山間部の川谷集落まで運んでくるのに使用していた重要な道だった。
だが、吉川町内の主要道路の整備は、他の市町村の中心地とを結ぶ南北の道路(地図上で言うと上下方向)の方が先に整備された。これは近隣の重要な都市(長岡市など)と道路で結ぶのを重要視したためで、経済面や物流などの理由もあっただろう。こんなわけで、旧吉川町(現上越市吉川区)の区域内には主要地方道が4線あるが(13号上越安塚柿崎線、30号新井柿崎線、61号柿崎巻線、78号大潟高柳線)、このうち78号を除いた3線が南北の道で、この3線は明治には仮定県道や県費支弁里道となり、1920年(大正9年)の道路法施行でいち早く県道に昇格、しかも1975年(昭和50年)代までにいち早く主要地方道に認定されることになる。

明治時代の道路 仮定県道、県費支弁里道について

ここで、歴史を遡って明治時代の道路の仕組みから解説していくことにしよう。これは長くなってしまうが、ここを通らないと、この道と隧道の歴史がわからなくなるので、どうかお付き合いいただきたい。

さて、明治時代の道路で最初に登場してくるフレーズは「道路法」である。
日本で道路法が正式に成立したのは1919年(大正9年)だが、その前の1872年10月(明治5年)には道路法の基になる「道路掃除条目」いわゆる道路掃除法を公布、各府県地方官(下記の注釈を参照)に対して道路の維持管理の徹底を図っている。

地方官・・・明治憲法時代の都道府県の長官の称であり、国の官吏として都道府県内を統轄した。1868年(明治元年)の政体書によって直轄府県に知府事・知県事を置いたのに始まる。藩籍奉還後は、それまでの藩主をそのまま地方官とし、知藩事と称した。1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって藩が廃止されて全国が府県に編成されて以降、府の長官は「府知事」、県の長官は「県令」と称され、その任免権は太政官が掌握した。


更に1873年(明治6年)8月には河港道路修築規則が各府県に布達。これは河川、港、道路をその重要度に応じて一等から三等までに分け、その等級ごとに修築費用の国と県の分担割合を明確にしようとするものだった。
この中で道路を一等から三等に区分して工事の経費分担を定めたが、この中で一等道路は東海道や中山道などの主要街道、二等道路はそれに接続する脇往還で、一等二等とも工事は地方が行い費用の6割は政府が、4割は地方が負担することになった。
三等道路は主に地方の村内の道路で工事は地方が行い、その工事費用も利益を受ける地方や地元の負担となったが、各級道路の認定は地方任せであり、費用負担をしなさいと言われた地元自治体としても予算の裏付けが出来なかったため、計画通りには実施されなかった。このため一等道路でも雑草が生い茂る始末で、三等道路ともなると通行することさえ困難な、まるで獣道のようなところも多かったとされる。
新潟県でも河港道路修築規則の布達を受け、県内の道路を幹線と支線に分けた上で更に幹線を一等と二等に区分、その支線を三等として道路改修を企画した。そして、その調査資料として各地区の戸長に当該地区の道路や橋梁の実態を報告させている。当時の吉川町の道路はすべて三等道路であり、橋梁数27、道路42線であった。

1876年(明治9年)6月8日。この日に太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」が発せられたが、この日は国道、県道と言う言葉が道路法制に初登場した日だ。
この日、太政官は1873年(明治6年)に定めた道路の等級を廃止して、道路を国道・県道・里道の三種類に区分し、更にそのそれぞれを一等から三等に分けた。例えば県道については、一等は各県を接続するもの、及び各鎮台(当時の陸軍の地方部隊)と各分営を結ぶもの、二等においては各府県の本庁と支庁を結ぶもの、三等は地区の中心地から港や駅などの主要地を結ぶものとしたが、里道の規模や位置づけに関しては今の考え方とはかけ離れていて、今で言う都道府県道から市町村道の範囲に相当する、非常に広い範囲のものだった。
この太政官達第60号の示達に基づき、政府(内務省)は国道、県道の路線を認可するための資料を府県に提出させたが、このとき里道に関しては報告義務なしとなった。また、この資料は国道においてはおおむね提出されたものの、県道については十分な資料の提出がされず、その数も多かったことに加えて起点・終点の確定に多くの時間を必要としてしまったため、その調整に手間取ってしまった。そこで、県から申請があった県道の道路に関しては、追って調査して認可するまでは正式な県道として定められないと言うことになり、(仕方ないので)暫定的に認可することになった。
これがいわゆる「仮定県道」と言われるもので、1919年(大正8年)に道路法が出来ると、そのほとんどが県道となって仮定県道と言う呼称は消滅した。 余談だが、この大正8年に施行された道路法の中で指定された国道が、いわゆる「大正国道」と呼ばれるものだ。

ところで、内務省は明治後半から大正初期にかけて、仮定県道路線の認可をかなり厳しくした。その結果、各地方では県道の認可基準に達しない里道を県知事が管理して、その費用は府県費で管理する道が次々と開削されるようになる。
要は「道路を作んなきゃいけないんだけど、県道扱いにすると国に対して申請だの認可だのと面倒だし、仮定県道になるとなおさら大変だから、それなら県道の基準より少し低くした道にして扱いを里道にして新しい道を作ろう。管理とお金は県で面倒みるよ」と言うようなことだ。
これが「府県費支弁里道」で、仮定県道の認可が内務省の承認が必要だったのに対し、里道はその必要がなく府県知事で判断・決済できるため小回りが利き、府県費支弁里道は増えていくことになる。このように小回りが利いた府県費支弁里道も、前述の1919年(大正8年)の道路法成立で多くは県道に、一部は郡道や市町村道になった。また、この他にも府県費支弁里道と同じような性格を持つものとして郡費支弁里道村費支弁里道などがあったが、郡費支弁里道についてはそのほとんどが「郡道」へ、村費支弁里道についてはその多くが「村道」となっていった。

仮定県道・郡費支弁里道から郡道・県道・主要地方道へ

ここからはいよいよ、主人公の「大潟高柳線」のお話である。
この道は前述のように海産物を尾神集落や川谷集落へ運ぶのに使われていたが、逆に川谷集落などの山沿いの集落から米や木材などを海沿いの集落へ運ぶという、地域経済にとって非常に重要な道だった。その後には途中の集落である平等寺の付近で石油が採掘されたことも重なり、この道の重要度は日ごとに増していき、道路の開削や改修、県道への昇格は地元住民にとっては正に悲願だった。

この道の歴史を辿ると、1898年(明治31年)から1906年(明治39年)にかけて潟町から数回の開削を重ねて仮定県道・郡費支弁里道として次第に尾神方向へ延伸していき、1906年に(明治39年)には石油が採掘された平等寺まで開通する。その後1910年(明治43年)にはついに尾神まで延長されたが、その先の尾神から川谷までは山間地で郡費の支弁は実現せず、村費支弁里道となったが、財政的には困難だった。

そんな中でこの東西のルートの道を県道として認定してもらい、開削や改修をしてもらおうとの機運が地域に沸き起こる。数回の意見書や請願を経て、1920年(大正9年)1月に川谷から尾神を経由して原之町までが「川谷原之町線」として郡道に昇格。その2年後の1922年(大正11年)には郡制廃止により道路法が改正、それまでの郡道は重要な郡道が県道に昇格するという状況を踏まえて、沿線の各村長などが集まり県道移管の請願を行った結果、1926年(大正15年)6月18日、ついに「川谷潟町線」として県道に昇格(尾神隧道が着工したのはこの頃と思われる。竣功は昭和3年)。
その後、1958年(昭和33年)3月28日に「吉川潟町停車場線」に名称変更、1994年(平成6年)4月1日には刈羽郡高柳町まで路線延長されて、同時に準国道ともいえる主要地方道へ昇格。道路名称も県道番号78番が付与されて「新潟県主要地方道78号大潟高柳線」となり、南北に走る他の3本の主要地方道と、ようやく肩を並べることになった。

尾神隧道について


1枚目…この地図は、国土地理院発行の5万分1地形図 明治44年測図 昭和6年発行 岡野町を使用したものである。
2枚目…国土地理院の電子地形図(タイル)を掲載

新旧の地図を見てみた。昭和6年と現在では地形も変わっているせいか(この間に中越地震も中越沖地震も発生し、滑ったのかもしれない)、今一つ判別がつかないが、前述の吉川町史によると「北側の報尽碑付近に道があった」と記載されているから、地図中「源村」と記載されている左側の碑の記号が報尽碑だろう。

報尽碑・・・正しくは「報尽為期碑(ほうじんいごひ)」。1883年(明治16年)3月、献木にするケヤキの大木を運ぶ浄土真宗の門徒が尾神岳で発生した雪崩に巻き込まれ、27人が命を落とした。この碑は宗門の人々によって殉難者供養のために建立されたものである。(参考資料・・・上越市WEBより https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/cultural-property/cultural-property-city189.html )


その吉川町史を更に読み込んで見ると、このような記述があった。
「特に尾神から川谷に抜ける区間は険しい山道で、未舗装で雑草が生い茂り、道幅も極めて狭く、車の通行は危険である。写真はその区間の石谷地内にある尾神トンネルであり、それ以前は北側の報尽碑付近に道があった。昭和3年(1928年)に手彫りで完成したが、長さ16m、幅2.3m、高さ1.3mで、とても県道のトンネルとは言えない。」 (吉川町史 第2巻第8章 第17節 道路の発達と整備より、原文のまま抜粋)
これが、尾神隧道のすべてだろう。ここには当時の様子を撮影した画像もあったので、併せて紹介したい。



最初の画像は未舗装当時の画像だ。今と比べて全長は変わっていないだろうが、 幅2.3m、高さ1.3mと今より一回り小さいサイズであり、隧道内も未舗装のために路面の一部に水溜りがあるのが見える。私がこの隧道を通って思った「この隧道はもっと広く2車線の幅で造ろうとしたものの、ひとまず今の坑道が出来た段階で工事が止まったのでは?」と言う考えは、この画像で間違っていたことが証明された(笑)。
チェンジ後の画像は私が撮影した現在の尾神隧道で、舗装もされているし、高さも2mある(標識も設置されているし)。舗装工事が行われた際に、隧道も多少拡張されたのかもしれない。


明治から地元の人々の熱心な開削活動が行われた道で、今は舗装もされてはいるものの、道幅は非常に狭く、尾神隧道の前後は今でも未開通区間扱いになっているのは、ここで紹介したとおりだ。
自然豊かな山中を駆け抜ける道は、思いがけず私に仮定県道や県費支弁里道など道路行政の歴史を再確認させてくれる結果になり、おかげで非常に勉強にも復習にもなったし、思い出深い探索とレポートになった。

いつかまた、訪れたい。
山中に潜む昭和3年生まれの古豪の隧道は、

その時も同じ顔を見せてくれるだろうか。

新潟県主要地方道78号
大潟高柳線 尾神隧道

完結。