一般国道113号
横根トンネル旧道
第4部

2019年5月3日・2020年3月28日 探索
2020年6月27日 公開



またまた登場の青枠の画像。マウスを重ねると現れる画像を先に見て頂きたい。この画像は第3部の最後で紹介した、路肩の擁壁の画像だ。前回の最後で擁壁の部分だけ山側から滑ったか崩れたかして路盤が消失してしまったために、この擁壁を作って修復した跡なのだろうということを書いたが、このチェンジ前の画像はそこから川を覗き込んでみた画像だ。御覧の通り、この箇所だけ川に岸がせり出してしまっている。やはりここは崩れてしまって修復した跡ということがわかった。スッキリしたところで、先に進んでみよう。



先へ進んでいくと、現道の横根トンネルから続く橋と米坂線の橋が見える。この旧道区間も、もうすぐ終わりだ。ここまで旧道と言うには何事もなく平穏に歩けたが、チェンジ後の画像は2019年5月3日に撮影したものだ。位置はほとんど変わらないと思うが、山側から雪が雪崩れてきて一緒に土砂崩れも起きてしまい、道のほとんどが雪と土砂に埋まってしまっている。山側の路肩に穴が開いてトンネルみたいになっているのはここに側溝があって雪解け水が流れているからで、まさしく自然が造りだす造形と言えると思う。

出発した場所に架かっていたあの黄色い第四荒川橋梁に向かった下り103列車も、この橋梁を通ったはずだ。左が小国方になる。103列車は左から右に向かっていたはずで、ここにこうして立って橋を眺めていると、トンネルから出て鉄橋を渡る蒸気機関車の8620形48639がけん引する列車の姿が見えるようだ。しかし、旧道の高さ制限がものすごく低い気がするのは気のせいか?。近づいて観察してみよう。



ブリキで出来ていて錆びついてしまった「けたに注意」の警告板(と言うのだろうか)が年季を感じさせる。
さほど車高がある車も通ることがないのか、高さ制限の鉄骨も塗料を塗り替えられることもなく錆びついてしまっていて、ところどころに残る黄色い塗料が遊歩道になってからの時間を感じさせるというものだ。チェンジ後の画像は第五荒川橋梁で、米坂線が開通した際の橋脚や橋梁とは違うだろうが、米坂線が通っている場所の険しさを教えてくれる。

橋脚にあった銘板を発見した。それによると竣功は昭和42年11月。設計は盛岡工事局とあるから、当時の国鉄盛岡工事局だろう。昭和42年11月…私が生まれる4年前(←ああっ!歳がバレる!(笑))ということは、今から(2020年現在)53年前か。開通当時の米坂線がどういう橋梁だったのかわからないが、少なくとも通っているところは変わってないようだ。



トンネルに突っ込んで行く米坂線と、その下を通る113号旧道。こちらから見ると高さ制限のゲートに残るゼブラが古さを醸し出してて非常にいい感じだ(笑)。手前の橋は山に突っ込んで行く米坂線の線路だ。チェンジ後の画像はそのトンネルの入口を拡大してみたもの。トンネルらしく、黄色い「退避困難区間」の標示が見える。

米坂線を潜り抜けて、交差地点の全景を撮影してみた。高さ制限のゲートが両方とも錆びついてしまっている。塗装し直すとかなり綺麗になるだろうが、この幅が現役時代の道幅そのものだろうから、そう考えると道幅としてはかなり狭い。余計なことだが、ついつい「この道幅で行き違いは大丈夫だったんだろうか?」と思ってしまう。

高さ制限のゲートを越えると、右側に見える駐車場を過ぎてすぐに現道に合流する。現道へ合流する地点は急な上り坂になっているが、これは現道時代からのものではなく後から高さを上げられたものだろう。それは、合流点にあるロックシェッドを越えた先にある、赤芝橋の旧橋脚を見るとわかって頂けると思う(ここから羽越水害で被害を受けた赤芝橋の姿を見れます)。


ひとまずゴールまで辿り着いたが、ベースとなっている車が第四荒川橋梁のそばにあるため、今来た道を戻ることにした(横根トンネルの暗闇を延々と歩いて戻るのは、いささか気が滅入る)。
その帰り道、見る視点が違えば発見できるということを改めて知ることになる。
帰り道、私が発見したものとは…!?

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