新潟県主要地方道3号
久平橋

2019年7月24日 探索・2020年6月7日 公開

今回は、街の中に埋もれてしまった非常に古い橋を紹介したい。その名は久平橋(きゅうへいばし)。
今となっては非常に珍しい、大正国道時代に架橋されたであろう由緒ある橋で、今も現役で活躍している。とはいえ、この名前をだけを聞いてもピンとこない方もいらっしゃるだろうから、まずはこの橋がどこにあるのか見てみよう。おなじみ、地理院地図である。

この地図では左側が新潟市東区、右側が新潟市北区だ。この二つの区は地図上の中央に見える阿賀野川が区界になっている。久平橋はその阿賀野川のすぐそばを平行して流れる新井郷川(にいごうがわ)と言う川に架かっている橋で、地図上に矢印で示している橋がその久平橋だ。
地図上を眺めていると「おや?」と思われた方も多いと思うが、この県道3号はこの先、新発田市佐々木と言う地区までは、実は国道7号の旧道である。国道7号が上に見えるようにパイパス化されたため、それまでの旧道は県道になり一桁台の番号を与えられた。新潟県では一桁県道は主要地方道に与えられる番号になっており、この道は国道7号の指定を外れた今でも重要な道として主要地方道に指定されている。

ところで「大正国道」とは、1918年(大正7年)の帝国会議で成立し、翌1919年(大正8年)に戦前の道路整備の基本法となった道路法(大正8年4月11日法律第58号、旧道路法とも呼ばれる)で定められ公布された国道のことだ。この大正国道は、その第十条で国道を「東京市より神宮、府県庁所在地、師団司令部所在地、鎮守府所在地又は枢要の開港に達する路線」として定義していた。つまり全ての国道は、東京の日本橋を起点として国内の他の地点へ至る路線だったのである。 トップナンバーの国道一号が結んでいた先は伊勢神宮で、現在の国道1号が東京と大阪という二大都市を結び、大正国道以前の明治期に制定された明治国道の1号が東京と日本で初めての開港地の横浜を結んでいたことを考えると、経済的な合理性「以外」の観点で道路網が組み上げられていたことが伺える。また通常の国道以外に、第十条二項に「主として軍事の目的を有する路線」があり、これらには「特〇号」という別番号が設定された。この国道は今では軍事国道と呼ばれることが多いが、必ずしも軍専用の道路であったわけではなく「特号国道」とでも言うべき路線だった。 ちなみに、この特号国道のトップナンバーである特一号は、1614年(慶長19年)に徳川家康が五街道の整備に先立ち造成した御成街道(現在の千葉県一般県道69号長沼船橋線)である。


さ、下調べはこのくらいにして、現地に行ってみよう!。

早速だが、久平橋の遠景である。私がいる場所は久平橋の東区側の川岸の側道にいる。画像では左が北区側、右が東区側になり、私はここにベースの車を止めて、徒歩で橋へ向かう。調べるとは言っても現役の橋なので親柱や橋脚を見るくらいしかできないのだが、ここから見る橋脚は石造りの非常にどっしりとした橋脚で、しかも非常に重厚な造りだ。造りはさすが旧一級国道といったところだろうか。

早速親柱を見てみよう。現役の橋なので親柱が失われていることは少なく、確認するのに非常に楽と言えるだろう。この親柱は東区側の一本で、左側の歩道部分は後世に追加されたものと思われる。親柱自体は(おそらくだが)架橋された当初のもののようで、その親柱の銘板は別の板がはめ込まれているものではなく、彫り込まれているものだ。貫禄のある文字で「久平橋(橋ははしごはし)」と刻まれている。

今度は対岸に渡ってみた。親柱には先ほどと同じように文字が掘ってあるが、画像にすると何が何だかわからないかもしれない。実は、この銘板が入るであろう窪みには「新井郷川」と彫ってあった。右の歩道橋は後付けだが、ただ単に通っているだけではそれが後付けとはわからないほど、見事に施工してある。今度は道路を渡って反対側の親柱を見てみよう。

この橋は本来の橋の両側に歩行者用の橋が増設してある。それは本来の橋が狭くて車が通るだけで精いっぱいなので、歩行者が通る余裕がないためだ。ところで、この親柱には久平橋と彫り込んであるが、その周りに何やらネジらしきものが刺さっていたような跡がある。よく見ると、これまで見てきた三本の親柱にも同じようなネジの跡があるので、もしかして銘板らしきものが後世になって取り付けられていた跡かもしれない。ここでも「久平橋(橋ははしごはし)」と刻まれていた。
問題は、最後の一本の親柱だ。早く確認したくて逸る感情を抑えながら対岸へと歩いていく。

あったぜ「國道十号線」!

この親柱を見た時には、正直に言うと感動してしまった。なぜかって?。だって、この街中の新潟市北区に大正国道時代の橋が残っているなんて!。まして、その親柱には「國道十号線」と刻まれているし!(「号」の漢字だけはPCで表示出来なかった。親柱に刻まれているこの「ごう」は「號」とも違う「号」の旧字体なのだ)。
ただねぇ…このままいくと、この橋の竣功年月日が不明なのよね。

ところで、4本目の親柱に向かうため歩道橋の部分を歩いていたら、ニャンコを見つけた。
「お前はそこで何してるのかにゃ?」と聞いているかのように、じっとこちらを見ているので、私も思わず「橋を調べているのだよ」とシャア・アズナブル(はたまたクワトロ・バジーナ)風につぶやくと、彼は「そうか。気をつけていくにゃ」と言わんばかりに、また寝てしまった(笑)。

ところで、この久平橋は意外なところでその名前が登場する。それは「木崎村小作争議」の一節だ。
この「木崎村小作争議」に関しては、ここで深く掘り下げることは避けるが、簡単に言うと1922年(大正11)年、地主から土地を借用して農業を行い、地主に小作料を支払っていた農民たちが小作料の減額、免除を要求して小作組合を結成。これに対して地主側は、小作料請求、耕作禁止、土地返還等で裁判に訴えたが、1924年(大正13年)3月には小作料未納を理由として、小作農の耕地立入禁止の仮処分を裁判所に請求した。裁判所はこれを認め仮処分が執行されるものの、執行の最終日には割腹を図る者が出るなどしたため、裁判所は和解を勧告。地主・小作間で和解が成立する。
この後も地主と農民の間で小競り合いは続く。農民側は日本農民組合(現在の全日本農民組合連合会)に参加して勢力を伸ばしたが、1926(大正15)年に濁川(にごりかわ)村(現在の新潟市北区濁川)の久平橋(きゅうへいばし)で警察官と農民デモ隊の衝突となり幹部が検挙されると、この木崎村小作争議は次第に衰えていくことになる。これは久平橋事件と言われ、ここで久平橋の名前が出てくるのだ。
ということは、少なくとも1922年(大正11年)にはこの橋は存在していたことになり、それは実に98年前になる。当時の橋が今のように石造りの橋かどうかはわからないが(当時の画像が確認出来ない)、親柱に「國道十号線」の文字が刻まれていることを考えると、現在の橋はかなり古い歴史を持つ橋であることは明らかだ。

前述のように、大正国道が制定されたのが1919年(大正8年)4月11日。
その時にこの橋が存在していたと仮定するなら、この橋は今年(2020年)で101歳になる。あの有名な山形県の国道113号綱取橋旧橋(1883年(明治16年)架橋)には敵わないが、旧い歴史的な橋と言えるだろう。
私も仕事でこの橋はよく通るが、これからもこの橋を通るたびに心の中で労わってあげようと思う。

新潟県主要地方道3号
久平橋

完結。