新潟県主要地方道17号
新潟村松三川線旧道
高石第一隧道・高石第二隧道
第4部
2019年3月25日 探索・2019年4月30日 公開
(高石第一隧道 調査編1)
ここからは、消えた高石第一隧道の調査編である。
そもそもこの隧道を調査するきっかけになったのは、高石第一隧道はどこにあったのか?と言うことだった。調べてみると、この隧道は日本全国隧道リストや新潟県発行の道路概要1964、道路現況調書、新潟県道路トンネルリストなど、いろんな資料にちょいちょい顔を出しているので、まずはここから調べてみることにしよう。
まずは新潟県発行の、このサイトではおなじみ「道路概要1964」(昭和39年発行)である。
これによると…
高石第一隧道は幅員5m、高さ4m、路面舗装・正面工無し、昭和21年(1946年)3月竣功。
対して、高石第二隧道は幅員4.5m、高さ3.6m、路面舗装。正面工無し、昭和26年(1951年)3月竣功(画像では切れているが、原本を確認した)。高石第二隧道の全長は87.4mとある。
まずは竣功年などの詳細な情報が判明した。
では、今度は新潟県発行の「道路現況調書 昭和50年(1975年4月1日発行)」を調べてみよう。
整理番号225番に高石村松線とある。
この隣のページを見てみると、「トンネル」と言う部分があって…
このトンネルのところに「99m」とある。また、個数が「2」とあるので、これは第一隧道が12m、第二隧道が87mで、合計99mの計算だ。高石第一隧道は、少なくとも昭和50年(1975年)まではちゃんと存在していた。
では、これから6年後。今度は「道路現況調書 昭和56年(1981年4月1日発行)」を見てみよう。
昭和56年(1981年)には整理番号こそ変わっていないものの、路線名称が三川村松線になっている。これは昭和45年(1970年)に全通した、高石集落から山を越えて当時の三川町谷沢を結ぶ林道「葡萄平線」を県道に編入したために、路線名称が変わったものと思われる。この「トンネル」のところを見てみると…
87mになっている!。また、その個数は1になっているではないか!。昭和56年の時点で、高石第一隧道は存在しなくなっていたのだ。と言うことは、昭和50年(1975年4月1日)から昭和56年(1981年3月31日)までの間に高石第一隧道は消えたと言うことになる。
高石第一隧道はどこにあったのか。その場所はまだ定かではないが、ひとまず高石第二隧道とは「別に(←これ重要)」第一隧道が存在したことがハッキリした。竣功年などの詳細な情報の裏付けのために、最後に「全国隧道リスト」を見てみよう。
全国隧道リストより抜粋・引用
上の表の最上段は「タカイシトンネル」となっているが、これはおそらく高石第二隧道のことで、延長87mになっている。このリストは平成16年度(2004年)道路施設現況調査(国土交通省)がベースになっているが、このリストにある高石第二隧道の全長は「道路概要1964」の全長と全く同じ。と言うことは、やはり現在残っている高石第二隧道と呼ばれるものは、高石第二隧道そのままだったのだ。
ただ、この全国隧道リストを見ると、高石第二隧道の竣功年は昭和10年(1935年)になっているのに対し、道路概要1964の方は高石第一隧道が昭和21年(1946年)、高石第二隧道が昭和26年(1951年)と竣功年に開きがある。
おそらくこれは、最初の竣功が「全国隧道リスト」の昭和10年(1935年)で、そのあと県道として指定される際に何らかの改修を受け、その竣功が「道路概要1964」の方の竣功年ではないかと推察される。
そして、ここには記載がないが高石第一隧道も第二隧道と同じく、おそらくは昭和10年(1935年)の竣功ではなかったか。竣功は、ほぼこれで間違いないだろう。
いいぞ、だんだん近づいてる気がする。
じゃ、隧道が開通するまでの道はどうだったのか?。ここで旧版地形図を見てみよう。山越えの昔の道が見えるかもしれない。
あったあった。たぶん山中を里道が走ってたんじゃないかなと思って旧版地形図を見ると…ちゃんとありました。
やはり里道(聯路<れんろ>)か。すると道幅は2mから3mくらいの道だったんだな。
山の中をクネクネと走るこの聯路は、現在の地理院地図では消えているので廃道になっていると思われるが、山中の集落であった高石と小面谷(こづらだに)を結ぶこの道を安全に通れるようにするために、道を川沿いに移して高石第一隧道と第二隧道を昭和10年(1935年)に開通させ、やがて県道指定で改修され、途中で何らかの原因で高石第一隧道が消え、現在に至るというところだろう。
では、その高石第一隧道はどこにあったのか。
今回の調査は、いつもお馴染みの旧版地形図も使ったのだが、ほとんどは主に航空写真と文献などで追跡した。
その理由は、旧版地形図のどの年代にも高石第一隧道らしき記載がなかったからなのだ。だが、この「旧版地形図上で記載がない」ということは、実は「そうじゃないかな」と予測はついていた。
それは高石第一隧道の全長が短いから。通常はどんなに短い隧道でもちゃんと記載されて然るべきなのだが、短いと地図記号で表現しきれずに、省略される場合がしばしばあったりするためである。
実は、この資料調査を行っている際に、ふと思ったことがある。そして、それは調べれば調べるほど確信に変わっていった。
それは「もしかしてこの二つの隧道は、その間に明り取り区間を挟むような形ではなく、もっと離れた形で存在していたのではないか?」と。そう考えると、高石第二隧道の高石側坑口付近で感じた、ここにあったにしては、あまりにも痕跡がなさすぎると言う、ある種の不自然さも説明が付く。
今度は航空写真で追跡してみよう。その上で、もう一度行ってみようか。