新潟県主要地方道14号
新発田津川線の短い旧道

第5部(完結編)

2020年5月8日 探索 2021年2月22日 公開

さて、今回はこの旧道で見つけた道路構造物について、いろいろとお話しよう。
まずはこの風景から。



これは旧赤谷線の路盤、つまりは現道から見た旧道の風景だ。ここから見ると、旧道の路盤は土盛りされた上で丸石で石垣が組まれた短い築堤で、その上に道路が通されていることがわかる。どう考えても、現道よりこの旧道の方が手間がかかっているように感じるのは気のせいだろうか。でも、現道(旧赤谷線)は切通ししたりしてるしなぁ。やっぱりお互いに道路なり線路なり、路盤を通すにはそれなりの手間がかかっているということだろう。
チェンジ後の画像は、その短い築堤を拡大してみたものだ。建造当時にしっかりと組まれて、現在もしっかりと残っているということ、それ自体が驚きだが、旧道の石垣の構造がよりわかると思う。実に見事な石垣だ。



この画像は、この旧道の入口の左側にあったものだ。この石垣はおそらく旧赤谷線のもので、線路の路盤はこの石垣の前の、今は草が茂っている場所を通り、現道の路盤を通って赤谷方向へ向かっていた。その昔は多くの貨車を従えた蒸気機関車が、ここを頻繁に走っていたのだ。
さて、この石垣は線路を通す際に切通しを作った時のものだろうと思われるが、もしそうだとすると、この石垣は最も古くて1920年(大正9年)ということになる。実に長い歴史がある石垣じゃないか。そう思って見てみると、この石垣自体が自然の中に充分に溶け込んでいるような気がするのは気のせいか。その石垣に近づいて撮影してみたのがチェンジ後の画像だ。石垣の隙間には若々しい緑の葉を茂らせた灌木があちこちに生えて、自然と調和した姿が実に美しい。また、法面を見てみると、斜面の角度が今よりも角度が浅いような気がする。

さて、今度は旧道と現道の合流部を見てみよう。この場所は第4部の最後で現道に合流した地点を現道側から見てみたものだ。現在の道の対比が一目でわかる場所だが、ここから見ると旧道がいかに「狭かったか」おわかりいただけると思う(ま、得てして県道の旧道はこんな幅の道が多いんだけどね)。こんなところを赤谷や、さらに諏訪峠を越えた先の綱木や新谷の集落、さらにその先の三川(当時は白崎といった)方面へ向かう車、はたまた新発田方面に向かう車が行き交っていたのだから、その状況たるや推して知るべしである。赤谷線が廃止された後、その路盤を使って速やかに道路整備が行われたのも致し方ないところだろう。


ひとつ前の画像から少し逆に進んだところから旧道を撮影してみた。路面にはくっきりとダブルトラックがついているが、実際には軽トラックでちょうどいいくらいの道幅で、実に狭い。ところで、この県道14号新発田津川線は旧会津街道とほぼ同じルートを辿っている、と書いた。そうすると、もしかすればこの旧道部分が街道だった可能性もある。かの昔の旅人が、この細い道を歩いたり馬車だったりして行き来していたころを想像すると、奥深い歴史を感じさせる道に見えてくるから不思議だ。

上の画像の地点からふと右を見ると、このような眺めのいい景色が目の前に広がる。この旧道の山側を走っている現道は木々に囲まれているため、この景色は旧道からじゃないと見ることができないのだ。遥か昔からこの風景は変わらないはずで、これからも変わらないことを願ってしばらく眺めていると、後ろから車のエンジン音が聞こえた。振り向くと…

旧赤谷線の路盤である現道を
地元のバス会社である新潟交通観光バスが
走らせている路線バスが通っていく。
赤谷線を走っていたSLやディーゼルカーも
旧道からはきっとこんな風に見えていたことだろう。
長さこそ短いものの、実に面白い旧道だった。

新潟県主要地方道14号
新発田津川線の短い旧道

完結。