持倉鉱山
事務所・精錬所跡
前編

2018年7月19日 探索・2018年7月22日 公開

蒸し暑い夏の、とある一日。
以前から気になっていた、1920年(大正9年)に閉山されたという阿賀町の山中にある鉱山跡に、一度行ってみたかった。今日はその鉱山跡に向かっている。
当日は非常に暑く、熱中症の危険がある暑さ。途中のコンビニで食料と水分を補給し、新潟から福島方向へクルマを走らせると「道の駅みかわ」が見えてくる。そう、五十島隧道の探索時にベース基地になったところである。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

今回は道の駅みかわには寄らずに、私には何かと因縁(笑)がある国道49号の道の駅の前の交差点から、新潟県一般県道135号五十島停車場線に入り、すぐに五十島橋で阿賀野川を渡る。この橋は五十島隧道のところで述べた、県営五十島渡船の代わりになった橋だ。
もちろん、渡船と橋とでは安心感は全然違うし、川が荒れてようが夜中だろうが、いつでも渡れるのがいい。例え急病だったとしても、救急車を自宅まで呼ぶことだって出来る。今では当たり前のことのように思えるが、この橋が完成する前は非常に不便だったことは想像に難しくない。この橋が完成した際の五十島集落の方々の喜びようが目に浮かぶようである。
さて、五十島集落を抜けると踏切があり、五十島駅方向へ向かう県道135号とは、ここでお別れ。そこから更に阿賀町道を山の方に一直線に走ると、磐越自動車道の高架を過ぎたあたりで携帯の電波が届かなくなった。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

いよいよである。すぐに新潟県一般県道17号に突き当り、右折。橋を渡るとすぐに左折して道なりに少し進むと、十字路に出る。左を見ると持倉鉱山跡の手作りの看板があり、道端にはおなじみの林道の起点標識がある。掲載した地図は国土地理院「地理院電子地図」の地図だが、最初の入口の部分が若干違っているので注意が必要。林道は砂利道だが、季節が良ければチャリで通りたいところだ。


しかし、訪れた時期は夏の真っ盛りで、チャリで進もうものなら正面からアブの突撃を受けそうなので、やめておいた。これは林道の途中、五十母川を渡る林道の橋上から撮影。

これは持倉林道のショット。林道の経路の半分はこんな道。だが、終盤になると道が荒れてきて、路面にも落石が目立つようになり、チャリでは走らせるのが難しそうな道になる。

林道の終点となっている、ちょっとした広場から更に徒歩で20分ほど歩くことになるが、その途中には、こんなにもそそられる道がある。「となりのトトロ」で、メイが発見する森の奥への道に何となく似ているような気がするが、やはりトトロには出会えなかった。歳を取りすぎてると、トトロには会えないらしい。

…そーではなくて(^^;

実はこの道の下草の下はアスファルトである。
その昔はここまで、と言うか事務所・精錬所跡、その先の鉱山跡や飯場・住居跡まで、車が通れる道があった。地形図上では五十母川にいくつも砂防ダムが見える。それを作る際に舗装したのだろう。当時の道はオート三輪が通る砂利道だったという話を、どこかで見かけた。

徒歩道となって歩く途中、右側にこの砂防ダムが見えて来たら正解の道を辿っている。
私は元気!と言いながら、大手を振って歩こう(笑)

訪問時はちゃんと下草が刈られており、非常に通りやすかった。無論、時期によってはヤブになっている時期もあるだろう。こんな山の中を、きちんと整備してくださる方々へ感謝である。訪れる側もキチンとそれなりの準備をして訪れたいものだ。

この辺まで来ると20分~30分ほど歩いた場所のはず。もうそろそろなんだがなぁ…と思いながら、カメラ機材が入った重いリュックを背負い直して歩いていると、それは突然現れた。

森の中の大神殿!

いや、これは鉱山の事務所の跡。人っ子一人いない場所に「突然」と言う方が一番しっくりくるほど、それは突然現れる。実際、私も今回初めて訪れたが、いきなりこの建物が目の前に現れた際には感動して「おーっ」と声をあげてしまった。持倉鉱山は江戸時代から銀山として採掘されており、明治30年には最も栄え、1913年(大正2年)には精錬所もあった。しかし1920年(大正9年)にはその銀山は閉山した。
しかし、そのあと1963年(昭和38年)まで蛍石を産出することになる。ここは事務所跡。採鉱区や居住区はここより更に2キロ上流にあるそうだ。来年にもぜひ再訪してみたい。

この建物は鉱山で精錬する際に出る鉱滓(こうさい。つまりはカス)で作った、カラミレンガと呼ばれるレンガで作られた。いわゆる再利用だが、これが意外に耐久性があり、そのおかげで100年近く経過した今も、この事務所の建物が残っているとされている。

ここへ来る道程は、常に五十母川(いそもがわ)を右に見ながら林道を通ってくるが、暑くて熱中症になりそうになった時に助けてくれたのが、この五十母川。

冷たい川の水を頭にかけたり顔を洗ったり、あるいはタオルを濡らして涼を取ったり、さすが母の川。

これは事務所跡から上流を撮影したカット。ここより2キロ上流に歩くと飯場(はんば)と呼ばれる採鉱区や居住区がある。今でも徒歩道が整備されており(林道の続きだが)到達は可能。

これは事務所の対岸にある、精錬所の全景。訪問時は川を渡れず近くまで行けなかったのだが、近いうちに再訪する予定である。

当時、この事務所の周りには従業員の宿舎が立ち並び、「金山」と称した集落が形成されていたとか。そういえば、事務所跡にたどり着く直前の左側の山中に、妙な平地があったような…

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