持倉鉱山
事務所・精錬所跡

前編 2018年7月19日探索・2018年7月22日公開
後編 2018年8月19日探索・2018年8月21日公開
2018年10月23日 加筆修正

その鉱山は、江戸時代から操業していた。
その名は持倉鉱山。またの名を五十島銅山とも言った。

1700年ごろに発見され、当初は主に銅を掘り出していたが、近代に入っては銀、鉄・鉛・亜鉛・蛍石(けいせき)などが採掘された。経営主体も様々に変わり、最初は会津藩が操業したが、最終的に三井金属工業が蛍石を採掘していた。明治末期から大正時代に最盛期を迎えるが、昭和38年には閉山を迎える。
現存する事務所跡の建物は、1913年(大正2年)頃の建造と言われる。事務所脇の五十母川を隔てた場所にある精錬所と共に建てられた。

同時期に建造された精錬所は1920年(大正9年)には閉鎖されるが、事務所や精錬所の建造に使われたレンガがカラミレンガと呼ばれるレンガで、鉱山から排出される鉱滓(こうさい。目的とする金属を取り出す際に出る鉱物の残りカスや泥状の物質)を再利用したレンガを使用していた。
このカラミレンガが、実は意外に強度が高い為、現在も事務所跡の建物の骨格部分や精錬所の姿を現在にとどめているのは、このレンガを使用しているためとも言われている。

新潟県一般県道17号沿いから始まる持倉林道を進んでいくと、山中に突然現れる事務所跡。
その風貌から古代遺跡や神殿と称する方々も多くおり、一度訪問すると、また行きたくなる場所でもある。

現在は、地元の保存会の方々が林道の下草の刈り払いや補修作業・整備等をされており、この事務所・精錬所跡から先に2キロほど進むと、居住区や採鉱区などが存在する地域に到達することが出来、整備はここまで行われているようである。また、この居住区にはかつて小学校や病院等もあったと言われ、一つの大きな町が存在していたようだ。

それではご案内しよう。
新潟県東蒲原郡阿賀町の山中に眠る
神殿とも呼ばれるその場所へ!

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