赤谷鉱山専用軌道
琴沢橋梁跡

(新潟県一般県道335号 滝谷上赤谷線)

2018年5月13日 探索・2018年5月15日 公開
2020年9月18日 大規模加筆訂正
2020年9月22日 画像追加・加筆

ゴールデンウィークも過ぎた週末。
時折、晴れ間が覗く一日、カメラを携えて出かけた先は、新潟県新発田市赤谷。

この赤谷周辺は新潟県下越地方でも有数の豪雪地帯だが、過去にはここに鉱山があった。
それが赤谷鉱山で、ここから産出された鉄鋼石を輸送するために新発田と簀立沢(赤谷線東赤谷駅の先、現在の加治川治水ダムの手前の分岐点周辺まで)の間に1920年(大正9年)に敷設された官営製鉄所の専用線があった。だが、この鉄道は第一次世界大戦後の不況もあって、使われないまま休止されてしまう。このあと沿線地元の要望もあって、1925年(大正14年)に新発田から赤谷までの間が国鉄赤谷線として開業するが、この時に赤谷から簀立沢間はレールも撤去されてしまった。
その後、昭和に入って1932年(昭和7年)の満州事変の頃から赤谷の鉱山は再び活気づくが、この時に産出された鉄鉱石を輸送するために赤谷から東赤谷までを国鉄が、東赤谷から袖上平までを日鉄鉱業が専用鉄道を再び敷設した。

ところでこの赤谷は新潟県下越地方でも屈指の豪雪地帯で、冬期(11月から翌年4月まで)の約5ヶ月間、専用鉄道は積雪や雪崩のため不通となってしまっていた。この間、鉱山は採鉱を休止していたが、これを解消するため専用鉄道を廃止して、路線全線にスノーシェッドとトンネルを設けた専用軌道を敷設した。専用鉄道は1956年(昭和31年)9月30日の運行を最後に廃止となったが、この路盤を転用して道路として開通させたのが、今の新潟県一般県道335号滝谷上赤谷線で、その積雪の多さを物語るかのように、この県道は今でも毎年11月下旬から翌年6月中旬まで積雪のため冬季通行止めになる。
この県道には専用鉄道時代に造られたスノーシェッドが四つ、今も残っており、これが現在WEB上で「東赤谷連続隧道(ひがしあかたにれんぞくずいどう)」と呼ばれているようだが、このスノーシェッドは土被りもなく、山も貫通していないので、正しくは隧道ではない。覆道(ふくどう)か、洞門(どうもん)の範疇になる。
また、このスノーシェッドがある辺りは上赤谷なので、言うなれば「上赤谷四連覆道」か「上赤谷四連スノーシェッド」ということになるだろうか。

2017年5月2日 撮影

これは第一スノーシェッド。加治川治水ダム方向から赤谷方向を眺めたものだ。天井が黒くなっているのは、当時ここを走っていた蒸気機関車のばい煙で黒くなってしまった跡で、歴史を感じさせる。このロックシェッドも全体的に傷みが来ていて、近々補修工事が予定されていると聞く。ここを走っていた1080号と言う蒸気機関車は、日鉄鉱業羽鶴鉱業所に転籍、現在は京都の梅小路蒸気機関車館に保存されている。

2017年6月9日 撮影

これは第三スノーシェッド。このスノーシェッドは何といってもモノクロが似合う風景だと思う。レトロな感じもそうだが、この現地は緑が非常に多いため、普通に撮影すると緑が強調された雰囲気になってしまう。これに対してモノクロは当時にフラッシュバックするのと、色が想像出来るのが非常にいい点だと思うのだ。今さらモノクロ?!と思われるかもしれないが、モノクロでしか再現できない雰囲気と風景もある。

2020年9月19日 撮影

これは第四スノーシェッド。スノーシェッドの先の法面が白くなっているが、これは吹き付けコンクリートで法面を補強したものだ。この県道の中でも、この第四スノーシェッドを過ぎて飯豊橋までの区間は(それまでも落石注意なのだが、この先は特に)落石が多く、その中でもここは特に崩れることが多かった場所だ。

2017年5月2日 撮影

これは飯豊橋から飯豊鉱山、赤谷鉱山があった方向を眺めたものだ。
この飯豊橋の袂から画像で言うと右側へ分岐する道があった。この道は今でも草が冬枯れの時季にはハッキリと確認することが出来る。今はこの緑が深い地域に二つの鉱山があったなんで、誰が信じるだろうか。でも、軽くこの付近を捜してみるだけでも、数多くの遺構を見つけることが出来る。この画像の中には左の片隅に現在の県道の飯豊橋が写り込んでいるが、この更に左側には専用鉄道が使っていた加治川を渡るための大鉄橋がある。

2020年9月19日 撮影

それがこの橋だ。この橋は袖ノ沢鉄橋と言って典型的な上路トラス橋だが画像から見てもわかる通り、結構傷んでいる。今すぐと言うことはないだろうが、もしかすると近い将来に落橋するかもしれない。そんな気がする。下を流れる加治川にこの橋が刺さっている光景は見たくない。ぜひ自治体の新発田市にもこの袖ノ沢鉄橋の保存を願いたいと思う。


2020.09.27 追記
新潟県立図書館越後佐渡デジタルライブラリーにて、この袖ノ沢鉄橋の現役時代の画像を発見した。撮影は1925年(大正14年)。実に美しい様相なので、ぜひご覧頂きたい。これだ!。

新潟県立図書館
越後佐渡デジタルライブラリー所蔵
無断転載厳禁

この橋の構造はプレートガーダー2連、単純上路プラットトラス橋の組み合わせで、この角度から推察すると、撮影場所は現在の県道335号を赤谷から加治川治水ダムへ向かって進み、飯豊橋の直前で左に袖ノ沢鉄橋への路盤が分岐して鉄橋に進入する直前の、路盤左側だろう。ちなみに現在の飯豊橋は、この画像中では袖ノ沢鉄橋の右側に位置するはずだ。実に雄大な鉄橋で、近代土木遺産と言ってもいいと思う。


また、これはあまり知られていないが、赤谷駅の付近に北越製紙の赤谷炭鉱もあり、産出された石炭は索道で赤谷駅そばにあった不動橋の集炭場所まで運ばれ、赤谷駅で貨車に積み込まれていた。これは同じく越後佐渡デジタルライブラリーに所蔵されている、赤谷炭鉱不動橋貯炭所の1925年(大正14年)当時の風景だ。

新潟県立図書館
越後佐渡デジタルライブラリー所蔵
無断転載厳禁

(追記 ここまで)



このように、この赤谷には昭和初期の頃、日鉄鉱業赤谷鉱山、日曹鉱業飯豊鉱山、北越製紙赤谷炭鉱と三つのヤマがあって、非常に活気のある裕福な地域だったのだ。そして、日鉄鉱業赤谷鉱山と日曹鉱業飯豊鉱山は、現在の新潟県一般県道335号滝谷上赤谷線の飯豊橋から加治川治水ダムの加治川左岸にあった。つまり、現在の加治川治水ダムの付近は元々は鉱山街だったのだ。

2017年5月2日 撮影

ここは飯豊橋を渡って、加治川治水ダムへ向かう県道との分岐点。左がダムへ向かう県道、右が加治川治水ダムの真下にある県営飯豊発電所へ向かう道だ。専用鉄道が走っていた路盤はまさしくこの発電所への道で、その昔はこの付近を「猿橋平」、この先の現在の加治川治水ダム直下にある台地を袖ノ上平(袖上平)と言った。またここから加治川左岸に渡る「猿橋」と、この先で加治川左岸に渡る「袖上橋」と言う橋もあったとされる、非常に興味深い場所でもある。また、この辺りから加治川の対岸を眺めると、冬枯れの時季には斜面に残された大階段が見えたりもする。


2017年5月2日 撮影


これがその階段だ。実に美しい。私は「赤谷大階段」と呼んでいる。この階段は上の画像の県道分岐点から県営飯豊発電所へ向かう専用鉄道の路盤の道を100mくらい進んだところで対岸(右側)を気にして見ていると現れる。草が冬枯れの時季しか見ることが出来ず、その他の時季に見ると木々の緑に埋もれてしまい見ることが出来ない。この画像は2017年5月2日に対岸から、450ミリの望遠レンズと三脚を使って撮影した。
チェンジ後の画像は、その赤谷大階段の上方を撮影したものだ。上まで登っていくと、コンクリート製の構造物が見える。道の構造物のようにも見えるが、これを狙って撮影してみると…

2017年5月2日 撮影

作業道の跡だ!

どうやら赤谷大階段は、坑口に向かう作業道に上がるための階段と思われる。位置からすると、こちら側の袖上平から袖上橋を渡ったところから始まっているのかもしれない。それに、階段の角度は結構急なようで、今は山から湧き出た雪融け水が加治川に流れる沢のようになっているようだ。


2017年5月2日 撮影


赤谷大階段から少し先へ進んで対岸を見ると、このような構造物が現れる。どうやらさっきの作業道はここに繋がっているようで、坑口だろうか。すると、この作業道には鉄鉱石を運ぶ専用軌道が走っていた可能性が高いし、実際に結構標高が高い場所まで上がっていたという記録もあるようだ。チェンジ後の画像は更に望遠で狙ってみたものだ。やはり坑口かなと言う気がする。位置からすると日鉄鉱業赤谷鉱山の坑口だと思う。こんな構造物が山中に残っているなんて、やっぱり赤谷は奥が深い。

2020年9月19日 撮影

赤谷大階段を横目に、先へ進んでいく。このまま行くと加治川治水ダム直下の県営飯豊発電所に辿り着くが、その手前右側にヘリポートがある。その付近は非常に広く、ヘリポートがあるからだけではない妙な広さと雰囲気があったのだ。気になって調べてみると、実はその場所に日曹鉱業飯豊鉱山の集落があった。

2020年9月19日 撮影

それがこの場所だ。この左側にヘリポートがあるが、そこには決して立ち入らないようにして頂きたい。ここが日曹鉱業の集落があった場所だ。日曹鉱業の集落はこれより上流の、今は加治川治水ダムの展望広場になっている場所に、もう一つあったとされている。今から60年から70年前、ここに数多くの人々が住んでいて生活していた。そこには繁華街があり学校があり、一つの街となっていたことだろう。もしかすると隣の日鉄鉱業赤谷鉱山に従事する人たちも、お互いに交流があったかもしれない。だが、昭和42年に加治川治水ダムの工事が始まると閉山になってしまい、ヤマの街は消えた。そんな人々が暮らしていた街と日曹鉱業飯豊鉱山が存在した証が、今もある場所に残っている。

2020年9月19日 撮影

私が赤谷に入った時に、必ず立ち寄る場所の一つがここだ。静かに深々と頭を下げる。これは日曹鉱業飯豊鉱山の慰霊碑で、今でもひっそりと気づかれない場所に立っていて、この赤谷に飯豊鉱山があったことを今も私たちに伝えてくれている。

2018年5月13日 撮影

さて、本題の琴沢橋梁だ。この橋梁は軌道が敷設された際に琴沢を跨ぐために架けられた上路ガーダー橋で、現在残っているこの橋は二代目である。初代は、この二代目橋梁のすぐ脇に橋台のみ残っていて、画像の中にも二代目橋梁の橋台のすぐ手前にもう一つ橋台が写っているのが確認できるが、これが初代橋梁の橋台だ。
初代も二代目も琴沢を跨ぐとすぐに隧道に入っていったが、二代目は塞がれた坑口が対岸に見えるものの、初代の方は草木に埋もれて坑口が判別しづらくなっており、今はその入口さえわからない。おそらく初代の隧道の坑口は崩落したものと思われる。
この初代と二代目が切り替わった年代は不明で、その理由さえもわからないが、初代も二代目も琴沢橋梁に入る手前で隧道に入り、その隧道を出た直後に橋梁で琴沢を渡っている線形は共通であること、またその直前まで専用軌道の線形が変わっていないことから、何らかの理由で初代の軌道が使えなくなり、おそらく琴沢橋梁の直前の隧道内で洞内分岐して新線に切り替えたのだろう。理由はなにか。琴沢橋梁を渡った先にあったはずの隧道の、圧壊か崩壊だろうか。

それはそれとして、この琴沢を始めとした赤谷の風景は、いつ見ても美しい。
元々、この赤谷は鉱山と、それに付帯する水力発電所建設のため拓かれた。この発電所は新潟県内初の発電所で、これによって赤谷の鉱山のみならず、新潟や新発田の街に電気の光が灯ることになった、非常に重要な場所でもある。そしてこの発電所が、ここでも紹介している赤谷発電所(当時は内之倉発電所)である。

険しい谷を切り拓き、命を懸けて発電所を造られた新潟水電に従事された方々。
日鉄鉱業赤谷鉱業所、日曹鉱業飯豊鉱業所、北越製紙赤谷炭鉱に従事された方々に最大限の敬意を払い、かつてそこに在った失われた街と去った人々を想いながら、私は毎年必ず赤谷を訪れる。


赤谷鉱山専用軌道
琴沢橋梁跡

完結。

参考資料…「緑の谷・赤い谷」©やぶからす氏