山形県一般県道349号
鶴岡村上線旧道 旧尾浦橋

第3部(完結編)
「水浅葱のジュエル」

2023年10月14日 探索 2024年6月6日 公開

水浅葱のジュエル

シェッドを抜ける前、ふと右を見てみる。当然だけど、隣を流れているのは赤川(大鳥川)。その風景を見ると思わず息を呑んだ。山紫水明、そこには10月の秋の日差しに輝く木々の葉と、青空を映してコバルトブルーに輝く川の流れ、そして日差しが水面に反射して宝石のように光る光景。その中に、まるでアクセントのように木の葉の間から姿を見せている、赤い桁の現尾浦橋。その美しさに、何とかして画像に残そうと夢中でシャッターを切った。気づいたら汗だくになっていたが、耳を澄ますと赤川(大鳥川)の流れの音が聞こえてくる。その音が実に心地よい。この道が今こうして残ってくれていてよかった、そう思った。

おお!現道だ!

道はシェッドを抜けて程なく、現道に合流する。なんて自然に合流する線形!(笑)。やっぱりこの線形のほうが自然だよねぇ(尾浦橋の付近は除いて)。ここなんか、先のほうから真っすぐに進んでくる道の感じからして、すんごく自然じゃないか。でも、結果としてこの道は改良されて現道が造られた。その理由は…あのシェッドにあったんじゃないだろうか。あのシェッドが小さすぎるか狭すぎるかして、それで改良の対象になった…としたら、理由としては一番適っている気がする。

…と、ここまで尾浦橋から真っすぐ進んできたが、そういえばこのシェッドの出口側はどうなっているんだろうか。振り返ってシェッドのほうを見ると…

これは…!

廃道でなくても、荒れてなくても、古くから(たぶん)重要な道として活躍してきたこの道。やっぱりなんだか風格を感じる。右側の岩むき出しの法面なんか特に。ところどころで補修されて今でも現役で使用されている道は、大針洞門とはやっぱり雰囲気も違った。ただ、天井のコンクリートの薄さは大針洞門とそう大して変わらないようにも見えるな。最初に造られた時期は、大針洞門とそう変わらないんだろうか。だとしたら、造りがどことなく似ているのも頷ける。もう少し離れて見てみようか。

少し離れて見ると、これはこれでまた良し。やっぱり旧道は山にへばりつくようにして進んでいて、反対側が川と言うのが一番いいような気がする。よくよく見ると、ここは私が好きな「左直角(に川に落ちている)、右直角(の法面、と言うか崖)」じゃないか。昔は道幅がもっと狭かったんだろうなぁ。

旧道や廃道を辿っていると、ふと「この道は昔、どんな人たちが通っていたんだろう?」と思うことがよくある。この道はどんな歴史を重ねてきたのか。それはこの後の机上調査編で解決していきたいと思う。

さて、いよいよ現道と合流だ。左に向かって走っているのが現道の県道。橋の袂に「尾浦橋 赤川」と表示板が見える。昭和初期の地図には赤川ではなく大鳥川と記されているが、私はどちらかと言うと大鳥川の呼び方の方が好きだ。

私の好みの話はどっちでもいい(笑)が、こうして分岐点に立って現道と旧道を眺めていると、新旧の道の通し方の違いがよくわかる。すなわち、旧道は川沿いに進んで川幅の一番狭いところに橋を架けて、川の反対側に行く。これに対して現道は広い道幅を確保するために、旧尾浦橋の地点よりは少し川幅が拡がったところを、現代の技術の橋で一気に超えて先へ進む。技術の違いと言えばそれまでだが、その技術の発展があったので現在の尾浦橋がある。そう思うと考え深いものがある。今の尾浦橋も100年後には「趣がある」なんて言われたりするんだろうか。

もう一度分岐点に戻って、尾浦橋に続く道を眺めてみる。道幅こそ広がったものの、この道は旧くからここに存在していた道ではなかったか。道の傍らに庚申塔や道標らしきものはなかったが、川幅の一番狭いところを通している道形やシェッド、そして何より昭和三年生まれの旧尾浦橋が、この道の歴史を雄弁に語っているように思える。


遥か昔からここを通っていた、この道。これまでにどんな栄枯盛衰があったのか。今は時代に沿った新しい道が出来て県道としての役割は終えたが、市道として今でも交通を通すという役割を担い続けている。残念ながら尾浦橋は新しい世代に変わったが、これからもこの道はこのままここにいてほしい。そんなことを思いながら、この橋を後にした。

さて、あとはこの橋の歴史だが…
隧道と同じく、ここも奥が深そうだなぁ…

山形県一般県道349号
鶴岡村上線旧道 旧尾浦橋

一旦、完結。