一般国道403号旧道
大倉トンネルと集落跡

2018年11月4日 探索・2018年11月5日 公開

2018年11月4日、私は冬に向けて取材を重ねていた。(俗に言うネタ集めと言う)
新潟県の山沿いでは、冬になるとかなりの積雪になる。そうなると自然とネタが少なくなってしまうので、普段からネタ集めをしておくということになるのだが、今日は国道403号を走って十日町市の大倉集落にたどり着いた。お目当ては旧道の大倉トンネル。このトンネルを探すべくやってきたというわけだ。現在、この大倉トンネルの代わりに使用されているトンネルは岩瀬トンネルと言って、この岩瀬トンネルと前後の区間は2015年7月19日に開通した。これはご存知の方々も多いと思う。
ここで、現在の地図を見てみよう。おなじみ、地理院地図の地図である。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

地図を見てみると、こうなっている。ここで道の表記がされているということは道路としての用途廃止を行っておらず、今でも道路として使用されていることを意味する(名目上は)。私が探していたのは大倉トンネルもそうなのだが、大倉トンネルを出てすぐに右に別れ、大倉の集落を目指して向かっている旧道なのだ。今の岩瀬トンネルからすると旧旧道と言うことになるので、果たして通れるかどうか一抹の不安があるが…まずは、現地に行ってみよう!

左に見えるトンネルは現道の岩瀬トンネル。右に分かれていく道が旧道である。この道はつい最近旧道化したが、旧道になりたてにしては、既になかなか雰囲気があるではないか。これは楽しめるかも。早速だが右に分岐する旧道に入り、登っていくことにしよう。

旧道に入って多少は登坂の道が続くが、さほど距離はなくすぐにこの地点に出る。
おおっ!この雰囲気はっ!と、わざと大げさに言っているが、実は先にこそっと見えているコンクリートの構造物(笑)。これが今回の目的だ。しかし、道幅は非常に狭い。これ、離合出来ないじゃん…。

あったあった。大倉トンネルである。今も現役で人や車を通している(よね?)。
この道が現役で403号だった頃は、この大倉トンネル前後は御覧の通り狭路であるが故に、交通のネックだっただろう。調べてみると雪崩の危険もあったそうで、多少坑門が前に伸ばしているのはそのためだろう。坑門の奥には本来の坑門が見えている。延長された坑門に隠されて、往時の本来の坑門を見ることは出来ないが、この坑門の雰囲気だと扁額はあったかもしれない。

高さ4.1m、幅3.4m。国道のトンネルにしては非常に狭い。それに、この打ち捨てられた感のある標識が、良い雰囲気を醸し出しているじゃないか。しかし坑門を延長しているのは個人的にはいただけない。さぞかし立派な坑門だったのではないかと思うのだが…。では、このトンネルを通って反対側に出てみよう。

ん~、サイボーグ感が半端ないぞ。トランス○ォーマーか?(笑)

これが反対側坑口。標識もこちら側はちゃんと立っていて健在で、同じく坑門部分が延長されているところを見ると、雪崩除けだろうか。標識による隧道の制限は高さ4.1m、幅3.4m。高さはいいとしても、幅は対面通行は出来ないだろうから、やはり狭かったのである。新しく追加された坑門の黄色と黒のゼブラが非常に目立つ。トンネル内壁に当たらないようにとの配慮だろうが、右側のゼブラは多少歪んでいた。なおトンネル内は乾燥していて傷みなどは見られず、まだまだ現役と言う趣だが、それ故にすんなりと通れたので、旧道好きとしては物足りなさは満載だ(笑)
さて、ここから次の渋海トンネルへ向かう旧道が始まるはずだが・・・。

さぁ、旧道はどこだろう?

進む方向を見て、ひとしきり観察してみる。ここから見る限りは分岐点などないみたいだが…でも、ちょっと待てよ?。あの電柱が走っている道はなんだ?。そう考えると、旧道のありかが見えた気がする。正解の旧道は…

これだ!ヤブ濃すぎ!

地味に、うっすらと道形が見えるのにお気づきだろうか。
私も地図上では通れると思った。しかしこうして近づいてみると激ヤブで、出来れば鉈か鎌で草を伐りながら進みたいくらいだった。う~みゅ…仕方ない、来年に踏破と言うことにしよう(←諦めが早い)。下草が枯れて生えてない時期、春先が良いだろうか。待てよ、電柱があるなぁ。とすれば、ここは電柱の管理道も兼ねてるのかな?。そうすると、やはり時期を選べば通れそうだ。

仕方ないので順路通り(旧道を横目に(涙目に?)見ながら)進むことにする。アスファルトの傷みが酷く、痛々しい。路肩にある草にまみれたガードロープが、旧道として非常にいい感じである。ここから先に進んで現道に降りて、その位置から改めて旧道を見てみた。

はっきりと見えるじゃないか!

ここまでハッキリと見える道形!。うぅ~、通りてぇ~!と、現道で一人騒ぐ私がいた(笑)
ハタで見てる人がいたら、実に怪しさ満載である。だが、このサイトを見ている方はわかって頂けるのではないか。ここまではっきり見えていて、装備が足りないので危険回避のために通れないとは…。

擁壁の上に走る旧道!。駒止もガードレールもガードロープもなし!。いかにも旧旧道、これ見よがしの道が、早く通ってくれと言わんばかりに自己主張している。出来ることなら、私もこの場で草を刈り払ってでも進みたいが、装備と時間が不足していた。深呼吸して再開を誓い、少し落ち着いてこの旧道の終点を見てみることにした。

終点から行くと通れそうだが、よく見てみると先は激ヤブである。雰囲気としては、旧道と言うより田圃のあぜ道だろうか。やはり期待通りの展開ではある。こりゃ春先でも鎌が要るかなぁ…(笑)

終点から現道へ合流する道。こういう雰囲気のある道は、私の大好物である。
このコンクリートともアスファルトともわからない舗装がいい。山の斜面を切り取ってつけたような道が、古を感じさせてくれる。どのような人がここを通り、里へ向かったのか。
私はしばらくここに立って、遥か昔に想いを馳せていた。

上の画像を、遠くに見えるカーブミラーの地点から見てみた。
道に降り積もった落ち葉がますます雰囲気満載ではないか。ここをボンネットバスが走ってきたら最高である。しかし…ここが国道403号だったのだろうか?。だとしたら狭すぎじゃないかと思うが、そこは三桁国道の悲しいところかもしれない。

右を見ると先に人家が見えて、今通っている道よりもさらに上に上がる道があった。ここは集落なのだろうか。このまま少し上がってみることにしよう。

道を進んで振り返ってみると、こんな感じの道が続く。旧道として非常にいい雰囲気の道だが、ここは豪雪地帯。冬になると雪の量が半端でないことが予想される。ここに生活しておられる方たちは大変だろう。そんなことを思いながら左を見ると…

おや、神社がある。だが、神社だろうか?。それにしては、ものすごく寂しい雰囲気だ。本位ではないが、少しお邪魔してみてみよう。
何か中央に碑がある。

「ここにあった大倉十二社と言う神社は、大倉集落が全戸離村と言う形になってしまったために、隣の岩瀬十二神に合祀され、大倉集落自体も閉村した」と言う碑だった。

これを見た瞬間、なんだか物悲しくなってしまった。この神社でも夏祭り、秋祭りが行われただろうし、冬になると雪深い地域のことである。初詣もここで行われていたことだろう。ここから多くの方々が社会に旅立たれ、家を継ぎ農業に精を出された方々もいらっしゃったことと思う。都会に住んでいる身からすれば、ここで自給自足の生活を行う方がより良い生活と思いがちだが、実際はそうではない場合もある。高齢化も進めば、跡取りなどの問題もあるだろう。
しかし幸いなことに、先ほどの旧旧道を辿っている途中で見た田圃は今でもしっかりと管理されており、稲を刈った後だった。また、この集落の中でも通ってこられている方がいらっしゃるのか、家の敷地内に畑などがあり、それらは耕されて作物が実っていた。

まだ大倉集落は完全に閉村した訳じゃない。そう感じることが出来たのは非常に嬉しかった。

現地の廃屋の一つ。しかし窓などはきれいで、まだ住まわれているのかと錯覚しそうなくらいである。きっと今でもたまに通われて、管理をされておられるのだろう。冬の新潟の重い雪を支えるための太い梁が印象的な、重厚な造りである。なお、この先には進まず、この位置から眺めるに止めておいたのは言うまでもない。


旧旧道沿いの道の一軒。右に組まれた石垣や左側の家といい、雰囲気が非常にいい。
徒歩や牛車・馬車が行き交った道の風景が、眼前に見えるようである。

今は建っている建物はないが、右に上がる小道が見える。
この道の先にも住居があったのだろう。この先の道にもこのような小道がいくつもあり、その先に広場があった。建物はないが、その跡は感じることが出来る。

上の場所から更に進んでくると、この場所に出る。
ここから左に行くと現道への合流、右に行くと渋海トンネルの旧道に入る。この旧道も探索したが、途中にはしっかりと耕作されている田圃があり、国道指定から外れても旧道は廃れることなく、ちゃんと役に立っていた。
やはり道は人が通い、そこに様々な喜怒哀楽の物語があってこそ、道である。嬉しい限りである。


旧道、旧トンネル、激ヤブの旧道、そして集落の跡と、お腹いっぱいの探索となった、この道。
盛りだくさんの内容だったが、非常に印象深い道となった。
願わくばあの集落にもう一度暖かい灯が灯って、子供たちの賑やかな声が聞こえる、集落としての暖かさを取り戻すことを切に祈りたい。

一般国道403号旧道
大倉トンネルと集落跡

完結。