一般国道460号旧道
五ヶ峠 第4部
(完結編)
2018年11月3日 探索・2019年3月31日 公開
さて、歴史を紐解く第4部だが、その前に福井集落側の合流点をご紹介しておこう。
そう、私がボケをかまして撮影し忘れたのだが、先日再度訪問して撮影した。
第3部最後の画像から坂を下ってくると、この場所に出る。右下は広い駐車場になっているが、その脇はすぐ現道の国道460号で、現道を登っていくと五福トンネルに進入していく。
これが現道との合流部である。旧道左側は登山客の駐車場になっており、旧道全体が「角田山登山道 五ヶ峠コース」とのことで、春の登山シーズンなど季節によっては、この旧道は福井集落側から五ヶ浜集落への一方通行になるようだ。また、山頂までバスも運行されるようなので、この旧道に訪問される方は事前に調べてからの方が良いと思う。
さて、ここからは調査編である。
まずはこの五ヶ峠がいつ旧道化したのか、まずはそこから調べてみよう。五福トンネルの竣功年月日を調べれば答えが出そうだ。だが、その前にまずは1931年(昭和6年)の地形図を見てみよう。
現在の地図を比べると、現在の旧道となった五ヶ峠の道がはっきりと描かれている。しかも、実線二重線と言うことは主要なる府縣道を意味しており、この道が当時からいかに重要だったかを表している。
1975年(昭和50年)1月1日現在の道路現況調書(新潟県発行)では、整理(県道)番号188号浦浜巻線として登場しており、この後に名称が五ヶ浜巻線に変更になったのちに、他のいくつかの県道を合わせて1993年(平成5年)4月1日に新潟県一般県道から一般国道460号に昇格。1994年(平成6年)11月28日に現道の五福トンネルが開通、この日を以って五ヶ峠経由の道は旧道になった。すなわち、国道指定から五福トンネルが開通する1年半ほどは、五ヶ峠が一般国道460号だったことになる。
現在の五ヶ峠の道を思うと、さすが三桁国道!と言うところか(笑)
ところで、この五ヶ峠を調べるには、やはり角海浜集落にも触れておかなくてはならないだろう。
1931年(昭和6年)の地形図を見ると、この頃は(当たり前の話だが)今は無き角海浜集落もしっかりと描かれており、病院や寺の記号も見えることから、大きな集落だったことがわかる。この角海浜集落は古くは港町であり、日本海を往来していた北前船は角海浜にも寄港していて、北前船の商家もあったそうである。そして近代になると今度は「越後毒消し丸」の一大産地として栄えた。この角海浜集落から遠方へ、多くの村人の方々が薬売りとして行商に旅立たれたとのことで、その方々はおそらくこの五ヶ峠を通っていたことと思う。だからこそ、昭和初期の時代からこの道は県道だったのだ。
ここまで栄えた角海浜集落なのだから現在でも残ってていいような気もするが、今では廃村になっている。実はこの角海浜は、この地域特有の海洋現象を抱えていた。それが波欠け(マクリダシ)と呼ばれる、海岸の土砂を根こそぎ奪っていくという海岸浸食現象で、これが数十年に一度の周期で発生して陸地が浸食されると共に、陸地も山崩れが発生するなどして平地が急速に狭められていってしまった。
そこへ現在の福井集落側の排水を目的として、水路隧道の樋曽山隧道が1933年(昭和8年)に県営排水改良工事として着手。1937年(昭和12年)に角海浜まで貫通したのはいいものの、それと同時期に角海浜集落を流れる飲料水や生活水としてきた川がことごとく干上がってしまった。これは完成した樋曽山隧道がこれらの川の水源の水を吸い取ってしまったことが原因で、これ以降、集落の方々は3本の共同井戸で水を確保することになる。この樋曽山隧道が竣功するまでは、角海浜の砂浜は鳴き砂であったという。
そこに今度は、東北電力巻原子力発電所計画である。
1969年(昭和44年)6月3日に地元の地方紙に掲載されたこのニュースは、当時から高齢化と過疎化に悩んでいた角海浜集落に、ある意味でとどめを刺してしまうことになる。 1971年(昭和46年)には集団離村が行われ、1974年(昭和49年)7月には最後の住人が角海浜を去り、完全に廃村となってしまった。最終的にこの計画は住民投票により反対の意思が示され、東北電力が計画を撤回することで決着するのだが、失われた角海浜集落はもう二度と戻らない。現在でも角海浜集落一帯は東北電力の社有地になっている。そして現道の国道460号五福トンネルや、国道402号五ヶ浜トンネルなどは、この計画の発電所を迂回するためと、その建設機材を輸送するために高規格の道路が必要なことから造られた道路と言う側面も持っていた。
この五ヶ峠の旧道は、今では角田山に登る登山客で賑わっているが、五ヶ浜集落や角海浜集落から巻方面に出ることが出来る唯一の道だった。古くは毒消し丸の行商に向かうために、多くの人が通った道だったことに想像は難しくない。きっと荷車なども通ったことだろう。だから車道そのものの道形をしていたのだ。
当時の行商をされていた方々は毒消しの薬が入った重い荷物を背中に背負って、この峠道を福井側から五ヶ浜・角海浜側に降りるときに見えた景色は明るく、家に帰るときの安堵感で、もうすぐ家族に会えるという思いで胸がいっぱいだったことだろう。歩む速度も速くなり、そしてきっと、眼下にはこんな景色が見えたに違いない。
ISHIDA HIROMICHI氏 「巻の浜ブログ(http://makinohama.blogspot.com/)」より転載
「集落があった頃の角海浜を村の北側尾根(北ノ鼻)辺りから見下ろす。(写真:斉藤文夫氏)」
今は登山道として多くの登山客を迎える道も、その歴史を紐解いてみれば非常に深く、重要な道であったことがわかる。
古くは毒消し丸を背中に背負って、今は無き角海浜や五ヶ浜の多くの方々が往来した、歴史ある道。現在は角田山の山中を走る旧道として、多くの登山客を楽しませる道。そして、歴史と自然現象に翻弄されながら行商を続けた、今は無き角海浜の人たちを通し続けた道。
その旧道は…
一般国道460号旧道 五ヶ峠
完結。