一般国道345号旧道
鬼坂隧道 第5部
「穏やかな旧道」
2024年5月18日 探索 2024年8月30日 公開
穏やかな旧道
…これは!
山をそのまま切り込みました!といった感じの、見事なV字型に切れ込んだ切通し。その脇には鏡面が無くなったカーブミラーの支柱。「廃」の要素を詰め込んだ実に美しい風景で、現地ではしばし見とれてしまったが、見るほどに「どうやって切通したんだろうか」と不思議になってくる。
この隧道の竣功は1951年(昭和26年)で、太平洋戦争の終結からさほど経っていない。この時期は経済も戦後の復興期だっただろうから、工事も大変だっただろうと思われる。そんな中で竣功したこの隧道、路面は未舗装だが隧道内部はちゃんと覆工されていたと、全国隧道リストに記録が残っている。どんな隧道だったんだろうか。画像が残っていれば、ぜひ見てみたいものだ。
トコトコと歩いて行って、切通しの壁を見上げてみる。5~6メートル…もっとかな?くらいの高さはありそうだ。時代的に考えると、手作業で掘り下げたんだろうか。表面は(というか、中もたぶん)岩場。その岩場の上にすくすくと成長した木々。ところどころ、岩場の表面が白くなっているのはなんだろう?。斜面はすごく安定していて、ちょっとやそっとでは崩れてくることはなさそうだ。もしかして吹き付けコンクリートも施工されているのかも。
その岩場の横に、ポツンと立ち尽くしているカーブミラーのポール。道は最初に立っていたところから緩やかに右にカーブして隧道の坑口に向かっている。そのカーブのところがどうしても見通しが悪くなるので設置されたのが、このカーブミラーだろう。ここを通行するものたちの安全を守り続けてきたミラーの鏡面も失われてしまった。念のためと思って付近を探してみるが、見当たらず。こういったものは、いったいどこに消えるんだろうか?。
このカーブを過ぎれば隧道が見えるんではなかろうかと覗き込んでみるが、私が今立っている場所からは見つけることが出来なかった。やはり近くに行ってみないと、わかりにくいのかもしれない。何しろ、閉塞された隧道へ向かう探索は、およそ今回が初めてなもんだから、いまひとつ「目が肥えて」おらず、それで見つけられないのかもしれない。
ところで、路面は下草も少なくて非常に歩きやすい。これは助かったが、どこからか流れ出してきている水のおかげで、やや泥濘んでいるところがある。私は長靴を履いていたので平気だったが、トレッキングシューズなどでは足元がやや気持ち悪いことになると思う。
そのまま隧道の方向へ行けばいいものを、なぜかこの期に及んでもったいつけて、先に進まずに振り返って付近の様子を撮影しているヤツ、それが私だ。今、こうして画像を見て記憶を辿りながらレポートを書いているが、我ながら「早く行けよ」と思ってしまう(汗)。
ふーむ…こうして見ていると、ホントにうまい具合に道の部分だけ切り下げてるもんだなぁと、改めて感心してしまう。隧道が穿たれるまで、元となる道がここにあったのかはわからないが、この切り通しが始まるところまでは比較的緩やかだった斜面が、ここにきて急角度になっている。だからここから切り通して隧道を穿ち、山のてっぺんの勾配がきつくなるところを回避しようとしたという、当時の人たちの考えたことがよくわかる場所だった。
現代なら…現道の鬼坂トンネルと同じ造り方で、一気にぶち抜いてしまうだろう。安全と利便性のためには、もちろんそっちの方がいいというのはわかってはいるが…なんとなく味気ない気がする。
懲りもせず、まだ隧道に向かわないヤツ。振り返った景色は戻りに撮れるから、今撮ってないで早く隧道に行け!と、レポートを書きながら自身にツッコミを入れている私だ。でも、それでも律儀に撮影した順番に書いているという、融通の利かない律義さよ。わかっているだろうね?。あなたがいけないのはそんなとこよ?と、どこからか聞こえてきそうだ。
閑話休題。これは先の画像から隧道に向かう前に振り返って撮影したものだ。時季の割には暑い日差しが降り注ぎ、暑がりの私を大いに苦しめたものだが、ここに来るとその日差しは幾分穏やかになり、周りの木々の木陰も相まって涼しく感じられる。これ、もう少し時間が遅くなると太陽の角度が変わってしまい、このような穏やかな感じには撮れなかっただろうなと思う。やっぱり、感じた時に撮らないといけないなと思った。
長い時間が過ぎて、道幅などはもちろん狭くなってしまったところもあるけど、こうしてさほど苦労することもなくここまで来れたのは、幸運だったと思う。おかげで周囲の風景や構造物などをよく見ることが出来た。残すは隧道だけだ。
次回、いよいよ(やっと?)
鬼坂隧道へ。