一般国道345号旧道
鬼坂隧道
2024年5月18日 探索 2024年8月1日 公開
鬼にまつわる峠道
その道は、以前は笹通峠と言った。
慈覚大師が湯殿山詣に来られた際に地蔵を刻み、峠に安置された。
その後、後三年の役の際に八幡太郎義家がこの地蔵尊に戦勝祈願したが、この際に敵方の安倍貞任・宗任に加勢するため、越後より(!)「黒鳥兵衛」という鬼がやって来た。その兵衛どんの鬼が笹通峠の頂上まで来ると地蔵尊が現れて、これより先には一歩も通すことならんと、その鬼と争った。
最初は石投げで争ったが、鬼が負けると鬼は「石投げで勝負は判るものでは無い。相撲なら勝負が明確だから相撲で決着をつけよう」と、泣きの一回の勝負を挑んできた。地蔵様は「相撲でも負けたなら異議なく立ち去れ」と約束させた。
結局、この泣きの一回の相撲勝負も地蔵様が勝利し、負けた鬼は地蔵様に謝罪して越後へと帰って行った。
これより以降、笹通峠は「鬼坂峠」と呼ばれるようになった。
参考資料…湯田川温泉 隼人旅館のムコ旦那デス。2012年8月6日。
ここに紹介したのは、数多くある伝説の一つに過ぎず、他にもいろんな言い伝えがあるようだ。だが共通しているのは、「地蔵」と「鬼」というようなことで、この話の中で出てくる鬼に勝利した地蔵はのちに坂野下地区にある「龍鬼山瀧泉寺」に移され、“鬼坂延命地蔵尊”として大切に祀られているということである。
そして幾星霜の時が過ぎ、ここに隧道が穿たれた。これが、今回の探索の対象である鬼坂隧道である。ではここで、おおよその場所を紹介しておこう。おなじみ地理院地図である。
最近、こう言った地図の画像が綺麗になったと思われる方も多いと思うが、実は少し前に画像を作成するソフトを変えたので、出来上がる画像が非常に見やすくなり、作業性も向上した。やっぱり「見やすい」「やりやすい」」というのは大切なことだよね。
さて、ご覧の通り、この鬼坂隧道は楠トンネルとは非常に近い位置にあり、この鬼坂隧道も片側は菅野代集落に属している。この探索は楠トンネル旧道と同じ日に行ったが、順番としては楠トンネルの探索を終えてから、この鬼坂隧道の菅野代側から入り、その後に坂野下集落の側から探索を行った。なぜ両方から探索を行ったのか。その理由は簡単だ。
この隧道は既に閉塞しているからである。
実は、この鬼坂峠は冒頭の地図を見ていただくとわかるが、鬼坂隧道や鬼坂トンネルよりも東側を通っている。そして現道の鬼坂トンネルが南北に貫いているのに対し、鬼坂隧道は現道のトンネルの直上を東西に貫いているという、少し変わった隧道でもあるのだ。平成の大合併までは、この鬼坂トンネルが鶴岡市と西田川郡温海町の境でもあった。竣功は1951年(昭和26年)とあり、今(2024年)からおよそ73年前のこと。延長は289メートルという数字はそんなに長くはないが、未舗装の隧道であったらしい。
と、ここまでが下調べで判明した部分だ。ネット上で軽く検索してみると、いくつか探索の記録はあったものの最近のものはなかったので、現地がどうなっているかは全く不明だ。それもあって、この探索は非常にワクワクした状態で行ったことを鮮明に覚えている。
それでは、現地に行ってみよう!。
この隧道で一番有名な風景というのは、やっぱりこれかな。
「この先 旧トンネル 通行止」
ここだけ見ると「どこに旧トンネルがあるん?」という風景だが、確かにこの先にある。おまけに旧トンネルは、通行止は通行止でも物理的に入れない通行止だから、これ以上強力な通行止はないだろう。楠トンネルの探索と同じ日なので、相変わらず真っ青な空がまぶしい。楠トンネルの探索を終えて、さっき着替えたばかりだが、この日差しの元で既に汗ばんでしまっている。あと2回は着替えないといけないかな。さぁそれでは…
探索開始!