新潟県一般県道207号
大栗田村上線

第16部「高坂橋の銘板」

2025年8月31日 探索 2026年2月26日 公開

高坂橋の銘板

親柱に取り付けられていた銘板が外れ落ちてしまっていたのだろう。親柱に立てかけてあるところが何とも心憎い。そこには「一般県道大栗田村上線」の文字が。消えてしまって、その跡のみ残る路側帯の白線。この橋の高欄はガードレールを使っており、簡素仕様とでも言おうか。左側には前回のレポートの主人公になった道路情報表示板の姿も見える。山の中の県道は、こんなのだろうか。あ、ここは見ての通り、対面通行できるくらいの2車線の幅があり、止まっている黒い車は私の相棒だ。時に探索のベースとして山の中に数時間放置されたり、時に未舗装の自動車交通不能区間(すなわち、4tの貨物車が通行できない)を通らされたり、またある時には後ろに折り畳みの自転車を積まれたり、何かと苦労しているヤツだ。たまに登場させてあげないとね。ちなみに、橋の欄干にこうして所属する道路の路線名は記されているのは、新潟県だけらしい。

これは反対側の親柱。何の変哲もない、現代の親柱なのだが、ここで紹介したいのは親柱に組み込まれている「高坂橋」と記されている銘板とは別の、横に取り付けられている銘板。私はこの銘板を見て、思わず立ち尽くす。この地域の現実を見たような気がしたからだ。門前川沿いに深い山の中を通って、大栗田と村上の間を結ぶ、この県道の橋。この橋の「たかさかはし」の銘板の文字を覚えているだろうか。あの文字を書いた人たちの名前が、ここに記されていた。

氏名は隠させていただいたが、つまりこういうことだ。昭和63年(1988年)に大栗田小学校・中学校に在籍していた全校生徒4名の生徒が、この橋の銘板の文字を書いていた。2026年現在で38年前、私が17歳だったころだ。そのころには、まさか後々に道の世界に入っているとは思わず、この銘板にこんなに感銘を受けるとは思ってもいない。でも、このころから大栗田の集落は過疎化が進み、小学校・中学校合わせて全校生徒が4名しかいなかった。前章で掲載した「たかさかはし」の文字を書いてくれた人は誰だろう?。今も息災だろうか。この大栗田集落に戻ってくることはあるんだろうか。その小学校・中学校の建物、今も残っているなら、ぜひ見てみたい(立ち入りはしない)。

さて、この道は…?。

高坂橋を渡って273号大栗田越後下関停車場線の分岐点を左に曲がると、こんな道になる。またまた一車線の道に逆戻りだ。却って、あの交差点を直進する273号の方がそれっぽい(もともと県道なのだから当たり前だが)。この道を進んでいくと、大栗田集落に行きつくはずだが、ここからはまだその姿は見えない。本当に山奥の里と言う印象だ。

おそらくこれが最後だろう。ここまで(見落としているのもあったと思うが)延々と続いてきた、この花の看板。最後は「まいずるそう」だそうだ。少し調べてみると、このまいづるそう(この標記の方が正しいんじゃないかと思うが)は、葉の形が舞鶴紋に似てるから、とある(舞鶴紋)。他には、葉の形が鶴が羽を広げて舞を踊っているように見えるので、と言う由来もあるらしい(舞鶴草)。 
この一連の看板、その中にはなかなかマイナーな草花もあれば、超有名なメジャーどころもあったりして、そのラインアップは実に楽しかった。大切にされてるんだろうな、この道。

辺りを見回しながら進んでいって、ふと右側を見ると、小高い丘の上に体育館が立っているのが見える。あれが大栗田小中学校だろうか。その体育館と思しき建物の窓に「ありがとう 大栗田小中学校」とあるのが泣かせる。この大栗田小中学校について少し調べてみると、開校は大栗田分校として1892年(明治25年)、閉校は大栗田小学校が1999年(平成11年)、大栗田中学校が2002年(平成14年)らしく、それから現在(2026年)まで、この校舎や体育館はこうして何年も過ごしているようだ。ただ、表からだけ見るに雑草が生え放題で荒れているといった印象はなく、今でもきちんと手入れはされているようだ。

次回、大栗田小中学校の姿を横目に見ながら、
県道の終着点に向かって進んでいく。

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