新潟県一般県道207号
大栗田村上線
第15部「山奥の道路情報表示板」
2025年8月31日 探索 2026年2月21日 公開
山奥の道路情報表示板

前回(第14部)で紹介できなかった(←しなかっただけ)、もう一本の親柱を見てみる。そこにはなんとも昭和的な字体で「おゝくりだばし」と刻まれていた。いつも思うことなのだが、この銘板の字体って、フォントじゃないような気がするのだが、どうだろう?。フォントにしては、ものすごく叔父がある書体だと思う。…あ、その前に、この橋が架橋された1965年(昭和40年)当時ではまだフォントの影も形もないか。だってPCがなかったんだもんね。そうすると、どなたの手書きなのか気になるところではあるが…きっと手書きで銘板が彫り込まれていたんだろう。そう考えると、なかなかの逸品でなないかとさえ思えてくる。

大栗田橋を渡るとすぐに左カーブがあって、またすぐに橋が見える。先ほど渡った大栗田橋は門前川を渡る橋、前方に見える橋は細い沢を渡るのだが、この沢は名前が定かでなく…遡っていくと分岐点があって、そこを過ぎた1本の沢が「後沢」とある。…と言うことは、別のもう一本が「前沢」と言うことになる可能性があり、「後沢」と「前沢」が合流すると、ただの「沢」になってしまうではないか!と、現地で一人地図を見ながらツッコんでしまった。
ま、沢はともかく、橋があるのだからそこに何かしらの情報はあるはず。進んでみよう。こちらに背を向けている右端の「何か」も気になるし…(おおかた想像はつくけどね)。

橋が見えてきた。その正面には青看板。その青看板の下が、この207号大栗田村上線と273号大栗田越後下関停車場線の分岐点だ。地図を見ると、273号大栗田越後下関停車場線が直進し、207号大栗田村上線が左に折れる道形になっている。冬季になると大栗田村上線は通行止めになるが、大栗田越後下関停車場線は通行止めにならずに、通年通行可能になっている。この探索のあと、越後下関停車場線を辿るつもりでいるが、向こうの方がきっと整備されているに違いない。この道たちが、古くはどうなっていたのか、興味がわくところだ。ここは早速確認してみよう。

旧版地形図を「ひなたGIS」様で確認してみたが、ここに掲載されている大正二年測図 昭和六年要部修正測図の地形図「塩野町」では、大栗田越後下関停車場線は跡形もない。それに対して大栗田村上線は「小径(こみち)」の表記で記載があり、かつ途中までは二重線の間路(かんろ)表記になっているのが興味深い。この「間路(かんろ)」を「レファレンス協同データベースで検索してみると…
「大正6年図式」で旧「達路(たつろ)」が1.5間(約2.7メートル)以上、「聯路(れんろ)」が1間(約1.8メートル)以上、「間路(かんろ)」が半間(0.9メートル)以上と改められた。このあと、大正10年の度量衡法改正を受けて、同14年からそれぞれ3メートル以上、2メートル以上、1メートル以上に変更された、とある。
「達路(たつろ)」、「聯路(れんろ)」、「間路(かんろ)」と言う表記は明治24年式~明治42年式で用いられたが、大正6年式では「達路(たつろ)」、「聯路(れんろ)」、「間路(かんろ)」の用語が無くなり「里道」は3つに区分され、 ・道幅一間半以上 ・道幅一間以上 ・道幅半間以上 となる。
掲載されている旧版地形図は前述の通りだが、測図されたのが大正2年のため、図式は「明治42年図式」が採用されたと思われ、この図式での区分は国道・県道・里道(達路)・里道(聯路)・里道(間路)・小径の6種類で、詳細な記述はない。だが、この後の「大正6年図式」では前述のように間路が「半間(0.9メートル以上)」とあるので、途中までは町村道として重要な役割を果たしていたと考えられる。
なお、明治42年図式の「達路(たつろ)」、「聯路(れんろ)」、「間路(かんろ)」とは、以下の道のことを指す。
「達路」(たつろ):著名な両居住地を連絡する道路、および著名な居住地から出て、また国県道もしくは他の達路より分岐して数町村を貫通する道路
「聯路」(れんろ):隣接する市町村の主要な居住地を連絡する道路
「間路」(かんろ):「聯路」間を結ぶ小路
(以上、レファレンス協同データベース「地形図の凡例について」より引用。
また、間路の少し上の方に、等高線をまるで無視したような徒歩道の山越えの道があるのも、非常に興味深い。おそらくは本来の山栗田集落に向かう道はこの山越えの道で、のちに門前川沿いに勾配の緩やかな通行しやすい道が開かれたと思われる。だから、途中までは間路だったのだ。今、思い返してみると、そういえば道に不自然な場所があった。それがこの場所だ。

ここは第1部「夏休みの子供たち」で出てきた画像だが、門前の集落から少し進んだところだ。ここまでは道幅は広かった。ところが、ここから急に道幅が半分程度になり、門前川沿いに進んでいく県道。おそらく、ここまでが間路だったのではないかと想像してみる。ここは水辺の公園のようになっており、ちょっとした水辺の憩いの場のようになっていて、今回の探索でも印象的だったところだ。

なんと素敵な看板!(笑)
…こんな看板を素敵!と思うのも、この趣味ならではないか(←当たり前だ)。
この看板だけで、この道が素敵な道と言うことがわかる。大型車通行止めと言うことは、1車線しか道幅がないが、それもそんなに広い道じゃない。とは言え「自動車交通不能区間」ではないので、4トンの貨物車は通行できる(自動車交通不能区間は、4トンの貨物車が通行できるかどうかで設定される)。落石注意の道路情報表示板があるということは、山の中の崖だらけの、それこそ「左直角、右直角」のような道、と言うことだ。これらを足すと、「実に素敵な道ではないか!」と言う答えに導かれる方程式だ(←そんなものはない)。苔むした擁壁も、実にそそられるではないか!。…いかん、少しコア過ぎたか。

さて、これはその二本目の橋、分岐点の直前にある橋だ。青枠なので、マウスカーソルを充てるかタップすると画像が切り替わる。2枚目の画像は銘板の部分を拡大したものだ。この橋の名前は「たかさかばし」。「たかこかばし」とも見えるが、漢字表記の銘板を確認したところ、「たかさかばし」が正解だ。この橋の銘板を誰が書いたのかは次回に譲るが、その理由がわかれば、なるほどと思ってもらえると思う。のびのびした、なかなか味のある良い字ではないだろうか。私は好きだ。

ここも青枠があるので、マウスカーソルを充てるかタップすると画像が切り替わる。ここも2枚目の画像は銘板の部分を拡大したものだ。この高坂橋、竣功は昭和63年11月と、比較的新しい…気がするんだけど、西暦だと1988年になるから、現在(2026年)だと28年前ってことになる。そう考えると、結構な年月が経っているもんだ。その28年間に、この道を通ったのが何台いるんだろう。そう考えると、なんだか寂しくもある。
「人が道を通し、道が人を通す」とは誰かが言った言葉だが、それを改めて思った。この道がないと大栗田の集落と、麓の門前の集落は結ばれないのだ。しかも先ほど紹介した、前半は冗談みたいに等高線を無視した山側の峠道は、現在では消滅してしまっているので、今は村上市から大栗田集落に向かう道はこの道しかないから尚更だろう。当時、大栗田集落の皆さんは冬季はどうしていたんだろうか。おそらく雪に閉ざされていたはずで、非常に大変な交通事情であったことは想像に難しくない。
次回はいよいよ、その大栗田集落に入っていく。
この県道の起点(探索では終着点)まで、あと少しの道程だ!。
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