一般国道253号
犬伏トンネル旧道第10部
(完結編)
「生命線」
2024年4月20日 探索 2025年1月7日 公開
生命線
今回は完結編。この画像に見えている犬伏トンネルと旧道、それから以前にこの付近に存在した鉱山にも少し触れておこうと思う。画像は現在の犬伏トンネル薬師峠側坑口、延長は260.8メートルと言うからさほどでもないが、このトンネルが完成したことで冬季には通行止になっていたこの道が通年通行可能になった意義は、この付近の住民の方々にとって非常に大きいと言えるだろう。
トンネルの銘板を見ると竣功年月は1979年12月とあるから、和暦では昭和54年のことだ。
1979年と言えば、イランでは王制が倒れ2月にイラン革命が成立して「第2次石油危機」が起きた年。道路関係では7月11日、東名高速の日本坂トンネルで発生した追突事故から火災が発生。3日間燃え続けて7人の方が亡くなり、173台の車が焼失すると言う大事故になった。
こちらは犬伏トンネルの田沢側坑口。山の斜面から飛び出たような突出型坑門を持つ坑口だ。取り立てて意匠もなくのっぺりとした印象だが、このトンネルが掘られた理由を調べていくと、この質実剛健な印象も「なるほどな」と思ってしまう。トンネルの直前に掛かっている橋の名称がなぜ炭坑橋と言うのか、この旧道の探索を始めた当初はその理由がわからなかったが、X(旧Twitter)のフォロワーの方(Makoto Shirasakiさん、ありがとうございました!)の一言がカギとなって、謎へのドアが開き始めたのだ。最初に、旧道分岐点を今一度確認してみよう。
これは上の炭坑橋の画像の地点から旧道に少し入って、ベースとなる車を停めたところを撮影したものだ。先には山を登っていく犬伏集落へ向かう道と、分岐して渋海川沿いを進む道の路盤が見えるが、このうち渋海川沿いを進む道が旧道だったことは記憶に新しいと思う。だが、旧道を進む私には、炭坑橋の名前の由来になった炭鉱の存在も、雪中隧道の位置もわかるはずもなかったのだ。調べていくと、その二つは、この左側の斜め上に上がって行く道の途中にあった。
ここが分岐点。左側の犬伏集落へ向かう道は超簡易的なバリケードがあり、通行できなかった(この簡易的なバリケードを跨げるか?とふと思い、何気なく跨ごうとしたら足がつったのはヒミツだ)。だが、この先の左側に以前は炭坑があり、その跡が現在も斜面の中腹に開いているとのことだ。
掘り出していたものは「亜炭(あたん)」。石炭の中でも、最も石炭化度が低いものをいう亜炭は、地質学上の用語としては「褐炭(かったん)」が正しい。その褐炭の説明はリンクに譲るが、亜炭は燃料事情に乏しかった戦後には大事な燃料として重宝された。だが亜炭は不純物が多いために着火性が悪く、燃焼時にも独特の臭気や大量の煤煙、そして大量の二酸化炭素を出すことから、燃料事情が好転すると早々に都市ガスや石油などへの転換が進められた。その一つ、松代町にあったとされる松代炭鉱では1946年(昭和21年)から1949年(昭和24年)にかけておよそ1000トンから1500トン、新松代炭鉱では1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけておよそ1900トンから3000トン、新城炭鉱では1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)には4500トン、5000トン単位で掘り出されていたというから結構な量だ。
参考資料…新潟県鉱業の趨勢・新潟県統計年鑑・石炭、亜炭鉱山名簿
中腹の斜面に開いている坑口が所属していた炭鉱が3つの炭鉱のどこなのかはわからないが、一時期は栄華を誇ったことだろう。雪に閉ざされた地域では主要な産業だったに違いない。
この画像は前の画像よりも少し前の地点で撮影した画像だが、この左側の斜面のどこかに雪中隧道が掘られていた。それは渋海川に沿って進む現在の旧道が積雪のため冬季には通行止になってしまい、翌年春まで(もしかすると6月近くまで開通しなかったかもしれない)交通が遮断されることから、1957(昭和32)年~1960(昭和35)年には第一トンネル(全長約221m)が、1961(昭和36)年~1963(昭和38)年には第二トンネル(全長約615m)が建設された。この2本の隧道は現道の田澤トンネル、犬伏トンネルが開通するとその役目を終え、現在では「昭和の青の洞門」として大切に管理されているそうである。
昭和の青の洞門と言えば、ここでも紹介した新潟県一般県道58号小千谷大和線一村尾トンネル旧道の後山隧道も有名だ。後山隧道にしても、この2本の雪中隧道にしても、この地方の豪雪地帯では現道が開通するまで、冬季の交通の確保に困難を極めていたことがよくわかる。後山隧道の場合は当時の薮神村村長だった小川泰夫氏、当時の国会議員だった田中角栄氏まで動かして開通させるほど、雪の中の交通に困難を極めていたと言うことだ。この2本の雪中隧道に携わった方々、雪と戦いながら冬を過ごされた地域の方々に敬意を表したい。道路がいかに大切かと言うことを表した小川泰夫氏の言葉があるが、それは最後に紹介することにしよう。
それに、この道に関連して気になる廃道がもう一つあるが、それは探索してみるまでナイショにしておきましょう(←いじわる)。
なお、この2本の雪中隧道と炭鉱跡、
気になる廃道に関しては
2025年の春に再訪して探索を行う予定だ。
この旧道(廃道)の性格を一番表しているのが、この画像ではなかろうか。
よくもまぁ…こんなところに道を通したもんだ。雪崩よ起きてくれ、と言わんばかりの道形。これでは、雪中隧道が必要だったのもよくわかる。ただ、それを掘るには多大の労力が必要だったはず。それはひとえに、子供たちを無事に学校へと言う親御さんの方々の想いが、一番だったのかもしれない。
道路は文明の母だ。
産業の生命線であり、集落の生命線である。
一般国道253号
犬伏トンネル旧道
完結。